、今や自信が持てた。
 手の爪ももうみがきあげられた。
 背広服は少し古いが、純毛のもので、丹念にブラシがかけられていた。腕時計の腕輪は、革では汗や埃がしみるので、クロームの鎖に代えられていた。上衣の腕ポケットにわざと無雑作らしくつきこんだハンカチは、縁に空色の縫い取りがしてあった。少し洗いざらしで地質が損じてるのは残念だったが、綺麗でさえあればよく、実際に使用することはないものだった。それから鹿革の手套は今では自慢だった。他の如何なる布地のものも革のものも、彼に言わすればそれはただ手の袋であって、手套という文字にふさわしいのは鹿革あるのみだった。其他にはあまり自慢になるものはなかったが、その代り、全くと言ってよいくらい目立たぬほどに、香水を身にふりかけた。ただ悲しいことに、それが如何なる花のエキスだか彼自ら知らなかった。
 特におめかしをした所以は、その日、波多野邸でゆっくり彼女に逢える筈だったからである。逢ってそして、彼女に意中を打ち明けるつもりだったからである。

 その日の、波多野邸に於ける集りは、なにか変な工合だった。
 もともと、故人波多野氏を偲ぶ夕として、その知友たちが、
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