。
「吉村さんのお話のようですね。」
「そうです。」
佐竹は怪訝そうに山口を眺めた。
「吉村さんなら、僕はよく知っていますよ。御一緒に訪ねてみましょうか。」
それが、なにか大きな衝動を与えたらしかった。千枝子は向うをむいたまま、振り向きもしないで、そこから出て行ってしまった。佐竹は眉をしかめたが、それを押し殺すように煙草に火をつけた。
「佐竹君。」
声がして、あの燐酸の先生がのぞいた。
「君は残っておれよ。君がいないと、どうも話が面白くない。」
そして彼は高声に笑った。
佐竹は黙って山口の側を離れ、広間の方へ行った。
山口はそこに取り残されて、唇をかんだ。何か体面にでも関するような失策をしでかしたようだった。而もそれが明瞭に分らないので、なお失策が大きく感ぜられた。ただ他日を期して……そう思った。そしてこの他日に倚りかかった。と同時に、彼はひどく冷淡になった。すべてのことに冷淡になった。波多野未亡人に礼を言い、人々に挨拶をし、玄関で外套を着せてくれたお花さんに会釈をし、鹿革の手套を片手に掴んで歩きだすまで、すべてのことを冷淡にそして冷静に紳士らしくやってのけた。
ところが
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