。
山口は尋ねた。
「あの人、先生のお弟子ですか。」
「弟子じゃないよ。」と吉村氏は答えた。「僕は嘗て弟子を持ったことはないし、これからも、弟子などは持たない。」
傍見をしながら答える吉村氏の顔を、山口はじっと眺めた。
「私はあの人を知っていますよ。」
「そうらしいね。」
冷淡な返事で、吉村氏は眉根も動かさなかった。が山口の方は、殆んど習慣的な微笑を浮かべた。そして吉村氏がそれきり黙ってるので、彼は言った。
「私は顔を知ってるだけですが……何という名前ですか。」
「え、名前って……。」
「さきほどの、あの人の名前ですよ。」
「あ、そう……。」
そして山口は、彼女が魚住千枝子という名前であることを知った。
これは、山口にとっていい収穫であったが、その後のことはうまくゆかなかった。山口はもともと、外交官を志望して、外務省に勤めていたが、終戦後すぐ、官省に見きりをつけて、新らしい政党の書記局にはいった。政治家も一種の対内的外交官だとの見解を持っていた彼としては、目的変更ではなくて、外務省の機能喪失を先見したわけである。そして彼が時折、一年に二回ばかり、吉村氏を訪問するのも、なにかやさしい飜訳の仕事、片手間で出来るような仕事を、探りに来るためであった。外交官或は政治家たる者は、一二冊の著書は持っている方がよく、少くともそれは下らない勲章ほどの価値はあるだろうと、考えていたのである。然し何か独自の著述をやるだけの自信はさすがになく、まあ飜訳ぐらいならと思ったのである。ただそれぐらいのところだったので、随って、吉村氏への用件は、頼む方も聞く方も、いい加減な数語で済んだ。その後は雑談で、山口としては、政治界の内幕などを大に談じたかったのだが、吉村氏はただ簡単な返事をするきりで、いつもそっぽを向いていた。自分からは殆んど口を利かず、没表情のなかに閉じこもっていて、何を言いかけても反応がなかった。それを文学者の偏屈だと、山口は解釈してみたが、先刻の魚住千枝子とのなごやからしい対話との対照が余りに甚しかったので、これは自分に対する反感の故でもあろうかと気づいた。然し吉村氏の反感などには一顧の価値も見出さなかったので、ただ魚住千枝子のことをも少し聞き出し得ないのが心残りなだけで、やがて程よく辞し去った。
その数日後、山口は波多野邸で、思わぬ好機会を得た。
党からの一寸した挨
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