ない顔立だっただけに、よけいに目立った。それら二つのことについて、彼は、栄養による手の甲の肉附と、栄養による額の皮膚の色艶、つまりは栄養に、救済を求めていたのである。だが、それほどの栄養を摂取することは出来なかった。彼はさほど富裕ではなかったし、また倹約家でもあった。
 この二つの例外が、彼の気分にちょっと陰翳を投じた。なぜなら、その二つがまた、彼と彼の恋人たる彼女とを隔てるものでもあったのである。美しい手指と、顔の表情の特殊な美しさとを、彼女は持っていた。
 彼が吉村氏を久しぶりに訪問した時、彼女がそこに来ていた。室にはいると、吉村氏と彼女とが同時に彼の方へ向けた眼色の動きで、彼は自分のことが二人の口にのぼせられたのを知った。理由はすぐ腑に落ちた。彼が時々出入りする波多野邸に、彼女は寄寓していたし、彼は面識があったのである。だが、ちと不思議なことには、吉村氏も彼女もそのことについては何とも言わなかった。それで彼も、ただ会釈しただけで、そのことには触れなかった。
 吉村氏と彼女とは、先刻からの続きらしい話をはじめた。戦争のこと、蜜柑畑のこと、温泉のこと、病気のこと、奇術のことなど、話題はさまざまに変転し、而も二人の間だけの暗黙の了解の上に変転したので、第三者には何のことかよく分らなかった。その上、文学者吉村氏の話なるものが元来、現実の事柄と小説中の事柄とが同じ比重で混交する性質を持っていた。それ故、山口は二人の話に興味も持たず、煙草をふかしながらぼんやり他事を考えていたが、その時、ふと彼女の美しい手指が眼にとまった。
 彼女は紫檀の机の上に両手をのせて、一冊の書物をもてあそんでいたが、硝子戸ごしにさしてくる光線のなかで、指先の爪が薄桃色の貝殻のように光った。殆んど関節の存在をも示さずに、先細りにすんなりと伸びた指の先に、その可愛いい貝殻の爪がはめこまれていた。光線のなかにあるせいか、指全体が、生きてるのか死んでるのか分らず、ただこまかく自在に動き、爪の表面が時々光った。
 そういう指先に、山口は心惹かれた、見てはならないものを見るような気持ちで、彼はひそかに視線を向けた。そのうち、なにか異様な沈黙が続いたと思われた時、彼女はもう立ち上りかけていた。
 彼女は山口の方へは挨拶もせずに席を立った。吉村氏は彼女を玄関まで送り出した。随分暫くしてから、吉村氏は室に戻ってきた
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