親の厳格な監督のもとに、そういう無頓着さは許されなかったのである。それと対照して、彼女のやり方は全く愛すべき子供っぽさだと、彼には思われた。ひいては、彼女のあの返事も、決定的なものではなくて、なにか子供っぽい愛すべきものではなかったであろうか。
 彼は自分の話し方が拙劣だったのを認めた。そしてこの自分の失策を認めることが、今は却って幸福だった。単に話し方がいけなかったのである。恋にふさわしい清らかな身の持ち方をしていることなど、そういうことを先ず語るべきであろう。
 彼は上衣の胸ポケットのハンカチで、決して使わないつもりだったハンカチで、汚れた手を丁寧に拭き、そのハンカチをズボンのポケットにつっこんで、しっかり立ち直った。そしてなお暫くその辺を歩いてから、座敷の方へ戻っていった。
 斜陽は赤みを帯び、物蔭は暗かった。
 来客はもう帰りかけていた。波多野未亡人は忙しそうに往き来していた。
 そういうことをも、やはり意に介しないかのように、井野氏はまだ碁に耽っていた。山口はその側に坐りこんで、ビールを井野氏についでやり、自分も飲んだ。まだ居残ってもよい気がしたし、彼女にもなお逢いたかったし、どうせ辞去するにしても、誰か有名な人と一緒になりたかった。帰りぎわが大切だと彼は考えた。
 然し彼の方を顧る人はいなかった。彼はそこに、碁客のそばに、置きざりにされた形になった。
 近く、広縁のところで、話し声がした。「落葉樹の森」という言葉が山口の注意を惹いた。声には覚えがあった。
「前半はたいへん面白く思いましたが、後半が少し退屈でした。」
「ええ、小説にしては、少し思想的すぎると、先生も御自身で仰言っていましたわ。」
「あの思想には、僕も賛成です。ただちょっと、拗ねてるような、へんなところがありますね。」
「私にはよく分りませんけれど……。」
「前から、お逢いしたいと思っていました。こんど、ついでの時に誘って下さい。」
「ええ、先生の御都合を伺ってみますわ。」
「気むずかしい人ではありますまいね。」
「いいえ、決してそんな……。」
 そして笑い声がした。
 どうも吉村氏のことらしいと、山口は思った。そして立っていった。佐竹と千枝子が、立ち話をしていた。彼女は先程の身扮の上に小紋錦紗の羽織をひっかけていて、なにか老けたように見えた。山口から顔をそむけた。
 山口は快活そうに言った
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