。
「吉村さんのお話のようですね。」
「そうです。」
佐竹は怪訝そうに山口を眺めた。
「吉村さんなら、僕はよく知っていますよ。御一緒に訪ねてみましょうか。」
それが、なにか大きな衝動を与えたらしかった。千枝子は向うをむいたまま、振り向きもしないで、そこから出て行ってしまった。佐竹は眉をしかめたが、それを押し殺すように煙草に火をつけた。
「佐竹君。」
声がして、あの燐酸の先生がのぞいた。
「君は残っておれよ。君がいないと、どうも話が面白くない。」
そして彼は高声に笑った。
佐竹は黙って山口の側を離れ、広間の方へ行った。
山口はそこに取り残されて、唇をかんだ。何か体面にでも関するような失策をしでかしたようだった。而もそれが明瞭に分らないので、なお失策が大きく感ぜられた。ただ他日を期して……そう思った。そしてこの他日に倚りかかった。と同時に、彼はひどく冷淡になった。すべてのことに冷淡になった。波多野未亡人に礼を言い、人々に挨拶をし、玄関で外套を着せてくれたお花さんに会釈をし、鹿革の手套を片手に掴んで歩きだすまで、すべてのことを冷淡にそして冷静に紳士らしくやってのけた。
ところが、波多野邸の門から一歩ふみだした時、彼は全身の力がぬけたような状態になった。何かの重圧から遁れると共に、自身もくずおれてしまう、そういう状態だった。
彼は足を止めた。殆んど無意識に振り返った。山茶花の粗らな枝葉からすかして見える玄関前に、人影があって真白なものを撒布していた。人影はすぐ扉に隠れたが、千枝子らしかった。彼は忍び足でそこへ立ち戻った。扉の前のコンクリートから地面へかけて、真白なものが点々としていた。彼はその一塊を拾い、口になめてみた。
しおばな……と彼は呟いたが、それと知ると同時にもうそれにも無反応になった。そして何かえたいの知れない沈思に陥って、ただ機械的に足を運び、そこを去った。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「世界」
1946(昭和21)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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