っては、殆ど零に近い。斯くて大衆文学は、民衆に、一時を糊塗する自慰自藉の糧を供給するだけであり、その感情的自涜行為を行わせるだけであり、その生活的痲痺剤を与えるだけである。
勿論私は、凡ての大衆文学がそうであると断定するものではない。然しながら、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」が大衆文学的組立に成っていながら、所謂大衆文学の域を脱しているという事実、また、デューマの「モンテ・クリスト」が大衆文学でありながら、単なる阿片剤ではないという事実、その事実を、果して幾人の大衆文芸作家が考慮しているだろうかということについて、甚だ心細さを覚ゆるのである。然しながら、現在の状態の大衆文学が、やがて読者に倦きられる時が来るだろう。さほど遠い将来でなく来るだろう。その時に、あるいはその前に、傑れた本当の大衆文学が生れてくることを、期待出来る気がする。
心細いのは、むしろ純文学の方面である。文学の本質的な作用を読者の数量によって測定するという錯覚から、二つの不祥な傾向が仄見える。その一つは、読者を、民衆的にではなく大衆的に(と云い得るならば)獲得せんとする傾向である。悪い意味の大衆文学に接近せんとする傾
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