異邦人の意欲
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)親友《とも》
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(例)[#ここから2字下げ]
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植村諦君の詩集「異邦人」は、近頃読んだもののうちで、感銘深いものの一つだった。
植村君の詩は、詩として上手なものではない。言語の駆使、イメージの喚起など、普通の作詩法的技巧において、苦心の足りない所がないでもない。然し、そういう技巧を超越して、簡明率直に歌っているところに、独特のリズムと清澄統一が獲得されている。殊に嬉しいのは、作者の意欲の力と純潔とが、作詩過程によって少しも乱されていないことである。この、意欲の力と純潔とが芸術的表現の過程によって乱されないということは、それだけで既に大したものである。
ところで、植村君の意欲は何であるか。それは、「異邦人」が「祖国」を求むる欲求である。
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波止場に待っていた乞食は
船がつくと駆けよって
この俺にさえ物をねだってくれる
俺にまだ人に与えるものが残っているというのか
恋人も、親友《とも》も、ふるさとも
みんな捨てて来た俺に
ああそうだ
「友よ、手を握ろう。」
漂泊人の俺には
この友情だけが残っていた。
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この漂泊人は、丸ビルの二階で、「紳士や貴婦人や美しく着飾った令嬢や若者が、花びらのように流れてゆく」のを背後に感じながら、「何かぐっとこみあげてくるものを堪えながら、」刄物屋の前に佇んで、そこに並べられてる白刄を一心に眺める。そしてふと気がついて歩きだす。――
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此の蒙々とした群集の無智の総和の中に、
ああ俺は実に、きらめく一閃を欲していたのだ。
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そして彼は、至るところに、浅ましい人間生活の相を見る。卑猥なチンドンヤ、ばかげた夜店商人、醜悪な乞食、その他、「食わんがために、肉を売り、媚を売り、自ら恥かしめて生きねばならぬ様々な人の姿、」「一切を、売る、買う、売られる、買われる、」生活の相……。そして彼は叫ぶ。
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売るな、買うな、哀願するな
自らの必要なものをなぜ取らぬ
取るために戦う
その血潮の中にこそ
永い間見失っていた真実な人間の姿が
発見されるのだ。
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然しその叫びは世に容れられない。ふるさとの人にさえも容れられない。そして時とすると、彼が軽蔑している無数のもののために、泣かされそうになる。
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負けたくない!
頬をつたう涙線の数をかぞえ乍らぼうぜんと空を見ていると
おろかな人間を無性になつかしく思える日である。
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然しそれは一寸の心のゆるみの隙間の日だ。彼はまた勇ましく立上る……。
植村君はその詩集の扉に、「祖国なきよろこびと悲しみと」と私に書いてよこした。そして私がここに詩集のことを述べるのも――それもよい詩を選んで紹介するのではなく、勝手な総合的叙述を試みたのも――実は、「祖国なき喜びと悲しみと」を、現時の所謂純文学にたずさわってる多くの文学者が、広い意味において、感じているであろうと思うからである。
*
「祖国なき喜びと悲しみと」――この祖国は、マルクス派の謂う所の祖国とは、全然異ったものである。
マルクスの共産党宣言中の文句は、「プロレタリアートは祖国[#「祖国」に傍点]を持たない。」と解釈すべきではなく「プロレタリアートは自国[#「自国」に傍点]を持たない。」と解釈すべきであろう。
「資本主義の下に於て、一体労働者は何等かの祖国を持っているか、否か。……国家の権力を掌握してその支配者となった時、ただその時にのみ、プロレタリアートは祖国を持つであろう。ただその場合に於てのみ、その祖国を擁護することがプロレタリアートの義務である。なぜなれば、その際にはそれが擁護しつつあるものは、自身の権力と自身の問題であって、それは敵の権力を擁護しているのではなく、其抑圧者の強奪政策を擁護しているのではないからである。」とこういう風に説くブハーリンの文章を読む時、たといそれが戦争を主題としたものであろうとも、祖国という言葉が如何に不当な使用を受けてるかを、吾々は感ずる。吾々が持つ祖国の観念は、権力の観念を離れたものである。権力の観念と結びつく国家という言葉と、そうでない祖国という言葉とは、吾々の胸に異った響きを伝える。
茲にいう祖国――広い意味での祖国――とは、同感を有する民衆の生活雰囲気を指す。民衆の生活雰囲気から同感を持たれない者は、常に一種の異邦人である。一足前方から、あるいは一歩深いところから、民衆に呼びかけようとする者は、多くは異邦人の歎を経験す
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