る。
民衆の生活は、緩慢で鈍感である。強力であって、左顧右眄をしない。牛の如きものである。殊にその生活が現代のように貧窮し逼迫してくると、当面の必要事以外に目を向けたがらない。公衆は騒ぎ立てるが、民衆は默って当面の問題を見つめている。「民衆は貧窮している。だがまだつつましく忍んでいる。民衆は真の意味での生活を愛する。そして公衆の如き愚劣な野心と見得とを持たない。……社会は動いている。だが民衆はまだ動いてはいない。時代の動きが民衆自身の動きと著しくかけ離れている。民衆はまだ忍従しながら貧窮の中に冷静を保っている。時代の動きを見る場合に、公衆的見地と民衆的見地とを混淆しないだけの聰明さは、誰もが必要とするところではないだろうか。」と言ってる新居格君の説に、私は賛成する。そして、公衆を目標にする政治が民衆から遊離するのは、当然の帰結である。
文学者は本来、一種の異邦人である。まして、民衆がパンの問題に当面して、忍従しながら静まり返って、他事を顧みる余裕の少い現代に於ては、猶更そうである。彼には、政治家に於ける公衆のような、自己欺瞞の――イリュージョンの――手品の種がない。ばかりでなく、出版資本主義の商業政策からくる生活の脅威に、不断に曝されている。
この危機をきりぬけるためには、「祖国なき喜びと悲しみと」の、その悲しみは当然のことだが、その喜びをも感得しなければいけない。そしてその喜びを感ずるには、「祖国」を求むる強烈な意欲を持ち続けなければならない。云いかえれば、民衆の生活に対して、積極的に――芸術的に積極的に――働きかけていかなければならない。
*
民衆の生活に積極的に働きかけるということは、芸術的にという条件を付してさえおけば、誤解されることはあるまい。
ところで、所謂大衆文学の方が所謂純文学よりも、より多く一般民衆に働きかけているという錯覚が、時として起こることがある。然しこれは、文学の本質的な作用を読者の数量によって測定しようとする、極めて皮相な錯覚である。この錯覚に、プロレタリア文学が囚われかかったことがある。そしてまた、所謂純文学全体が囚われかかっている。
大衆文学は、多くは、民衆に媚びることをしか為さない。媚びを売ることをしか為さない。その情緒を擽り、その安価な涙を誘い、その安易な感激をそそるばかりで、その生活に対する掖導的作用に至っては、殆ど零に近い。斯くて大衆文学は、民衆に、一時を糊塗する自慰自藉の糧を供給するだけであり、その感情的自涜行為を行わせるだけであり、その生活的痲痺剤を与えるだけである。
勿論私は、凡ての大衆文学がそうであると断定するものではない。然しながら、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」が大衆文学的組立に成っていながら、所謂大衆文学の域を脱しているという事実、また、デューマの「モンテ・クリスト」が大衆文学でありながら、単なる阿片剤ではないという事実、その事実を、果して幾人の大衆文芸作家が考慮しているだろうかということについて、甚だ心細さを覚ゆるのである。然しながら、現在の状態の大衆文学が、やがて読者に倦きられる時が来るだろう。さほど遠い将来でなく来るだろう。その時に、あるいはその前に、傑れた本当の大衆文学が生れてくることを、期待出来る気がする。
心細いのは、むしろ純文学の方面である。文学の本質的な作用を読者の数量によって測定するという錯覚から、二つの不祥な傾向が仄見える。その一つは、読者を、民衆的にではなく大衆的に(と云い得るならば)獲得せんとする傾向である。悪い意味の大衆文学に接近せんとする傾向である。勿論私は、吾国の文学に構想の貧弱さを認める。創造力の微弱さを認める。然し茲に言うのは、そういう構成の問題ではない。創作過程から云えばも一つ手前の、作品について云えばも一つ奥の、作者の意欲の問題を指す。たとい、出版商業政策のなかにあって、作者自身の生活が当面の問題となるにせよ、その問題が作者の意欲を左右して、読者を大衆的に獲得せんとする方向へ転ずる時には、文学は転落の危険に陥る。
も一つの傾向は、純文学に対する悲観説とそれに伴う作者の意欲の衰退とである。その結果、作者は次第に自分の殻のなかに潜みこみ、なおその殻を小さく縮めようとする。個人主義であり、独善主義である。そしてこの独善主義が、文学に最も忠実な態度だと見誤られる時、文学は自滅の途を辿る外はない。単に自分のためにのみ創作のペンを執るということは、反対の比喩を用ゆれば、自殺者がその遺書に長々と感懐を託するのと同じである。共に、一の反語としてしか成立しない。
読者を大衆的に獲得せんとすることも、または独善主義のなかに閉じ籠ることも、之を純文学の立場から見れば、作者の真の意欲の欠乏を意味し、民衆の生活への働きかけが消極化す
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング