ることを意味する。文芸作家は、民衆のなかにあって畢竟は「異邦人」である。そして「祖国」を求むる意欲を持ち続ける限り、民衆の生活に積極的に働きかけてゆかざるを得ないだろう。「祖国」を不用だとするのは、自分に対する愛を、また人間に対する愛を、喪失してしまった者の言に過ぎない。
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民衆の生活に積極的に――芸術的に積極的に――働きかけるということは、民衆の生活に愛する心を以て関心を持つことに初まり、その閑心が芸術制作のプロセスから歪曲されないことによって終る。その時に初めて、作者の意欲の純粋性が保たれる。そこに文学の生命幹線がある。
この生命幹線を、私は、例えばピリニャークの「火を生む町」に感ずる。この一篇の物語のなかでは、主人公マルコフが作者の傀儡になりすぎてる憾みがないでもなく、また、マルコフが肉身の父親を失うと共に、人間の生活に、生活の痙攣に、父親を見出したという思想が、抽象的になりすぎてる憾みがないでもないが、それらのものを超えて、吾々の心を打つ何かがそこにある。また例えば、魯迅の「孤独者」に於てもそうである。その新味の少い坦々たる叙述を超えて、吾々の心を打つ何かがそこにある。そしてこの何かは、芸術的表現をくぐってもなお純粋な状態を保ってる作者の意欲――なお云えば生活意欲――に外ならない。
右のような作品を読んだあとで、手当り次第に雑誌の頁をくりながら、メイ・シンクレアの「霊肉」にぶっつかると、私は、読み進むのに一種の困難を覚えた。殊に、ハリオットが臨終の際に精神的彷徨をなすあたりから先は、読み続ける忍耐がなくなった。
「霊肉」は、芸術的に苦心を重ねられた作品であるかも知れない。落付いた筆致と、省略的な手法と、簡明な描写とを以てして、全篇に高雅な香りが籠っている。そして後半に至っては、奇を衒わない陳腐な取扱方のうちに、新しい精神分析法の見解が含まれているのかも知れない。然しながら、ハリオットが初めに二度の清浄な恋をし、次に肉体的な恋をする、そのあたりから既に、それらの恋愛が生活から遊離しているのに対して、人間生活に関心を持つ読者は、何等かの焦躁を感ぜさせられないであろうか。そして最後に、ハリオットの霊がその肉体から脱しながら、肉欲を脱しきれずに、過去の恋愛の場面を彷徨するあたりになって、右の読者の焦躁は高まって、遂に書物をそこに投げ出すに至るかも知れない。芸術的技巧が拙いためではない。否却って、技巧がすぐれてるためである。この技巧は、それが巧妙になればなるほど、作品の主題を益々人間生活から遊離させる結果になる、そういう種類のものである。そこに、作者の芸術的意図と生活意欲との乖離がある。
新しい見解や思想など、凡て新しい視角には、それに相応する新しい表現方法が必然に要求される。然しこの場合、作者の芸術的意図が権威を振って、生活意欲がその下に窒息させられ、或は歪曲させられる時には、作品はその生命の幹線を断たれて、一種の玩弄物となるの危険がある。
勿論私は、「文学は階級闘争のための武器以外の何物でもない」という命題の、階級闘争という言葉を他の如何なる言葉で置換しても、それに全然賛成するものではない。然しながら、何等かの意味で常に「異邦人」たる純文学の作者は、「祖国」を求むる意欲を不断に持ち続けると共に、それが芸術制作のプロセスのために歪曲されないだけの用心を失ってはならない。「祖国」を求むることは、「祖国」を得る途である。「祖国」を得ることによって、文学は最も多く存在の理由を見出す。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
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