っては、殆ど零に近い。斯くて大衆文学は、民衆に、一時を糊塗する自慰自藉の糧を供給するだけであり、その感情的自涜行為を行わせるだけであり、その生活的痲痺剤を与えるだけである。
 勿論私は、凡ての大衆文学がそうであると断定するものではない。然しながら、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」が大衆文学的組立に成っていながら、所謂大衆文学の域を脱しているという事実、また、デューマの「モンテ・クリスト」が大衆文学でありながら、単なる阿片剤ではないという事実、その事実を、果して幾人の大衆文芸作家が考慮しているだろうかということについて、甚だ心細さを覚ゆるのである。然しながら、現在の状態の大衆文学が、やがて読者に倦きられる時が来るだろう。さほど遠い将来でなく来るだろう。その時に、あるいはその前に、傑れた本当の大衆文学が生れてくることを、期待出来る気がする。
 心細いのは、むしろ純文学の方面である。文学の本質的な作用を読者の数量によって測定するという錯覚から、二つの不祥な傾向が仄見える。その一つは、読者を、民衆的にではなく大衆的に(と云い得るならば)獲得せんとする傾向である。悪い意味の大衆文学に接近せんとする傾向である。勿論私は、吾国の文学に構想の貧弱さを認める。創造力の微弱さを認める。然し茲に言うのは、そういう構成の問題ではない。創作過程から云えばも一つ手前の、作品について云えばも一つ奥の、作者の意欲の問題を指す。たとい、出版商業政策のなかにあって、作者自身の生活が当面の問題となるにせよ、その問題が作者の意欲を左右して、読者を大衆的に獲得せんとする方向へ転ずる時には、文学は転落の危険に陥る。
 も一つの傾向は、純文学に対する悲観説とそれに伴う作者の意欲の衰退とである。その結果、作者は次第に自分の殻のなかに潜みこみ、なおその殻を小さく縮めようとする。個人主義であり、独善主義である。そしてこの独善主義が、文学に最も忠実な態度だと見誤られる時、文学は自滅の途を辿る外はない。単に自分のためにのみ創作のペンを執るということは、反対の比喩を用ゆれば、自殺者がその遺書に長々と感懐を託するのと同じである。共に、一の反語としてしか成立しない。
 読者を大衆的に獲得せんとすることも、または独善主義のなかに閉じ籠ることも、之を純文学の立場から見れば、作者の真の意欲の欠乏を意味し、民衆の生活への働きかけが消極化す
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