ることを意味する。文芸作家は、民衆のなかにあって畢竟は「異邦人」である。そして「祖国」を求むる意欲を持ち続ける限り、民衆の生活に積極的に働きかけてゆかざるを得ないだろう。「祖国」を不用だとするのは、自分に対する愛を、また人間に対する愛を、喪失してしまった者の言に過ぎない。
      *
 民衆の生活に積極的に――芸術的に積極的に――働きかけるということは、民衆の生活に愛する心を以て関心を持つことに初まり、その閑心が芸術制作のプロセスから歪曲されないことによって終る。その時に初めて、作者の意欲の純粋性が保たれる。そこに文学の生命幹線がある。
 この生命幹線を、私は、例えばピリニャークの「火を生む町」に感ずる。この一篇の物語のなかでは、主人公マルコフが作者の傀儡になりすぎてる憾みがないでもなく、また、マルコフが肉身の父親を失うと共に、人間の生活に、生活の痙攣に、父親を見出したという思想が、抽象的になりすぎてる憾みがないでもないが、それらのものを超えて、吾々の心を打つ何かがそこにある。また例えば、魯迅の「孤独者」に於てもそうである。その新味の少い坦々たる叙述を超えて、吾々の心を打つ何かがそこにある。そしてこの何かは、芸術的表現をくぐってもなお純粋な状態を保ってる作者の意欲――なお云えば生活意欲――に外ならない。
 右のような作品を読んだあとで、手当り次第に雑誌の頁をくりながら、メイ・シンクレアの「霊肉」にぶっつかると、私は、読み進むのに一種の困難を覚えた。殊に、ハリオットが臨終の際に精神的彷徨をなすあたりから先は、読み続ける忍耐がなくなった。
「霊肉」は、芸術的に苦心を重ねられた作品であるかも知れない。落付いた筆致と、省略的な手法と、簡明な描写とを以てして、全篇に高雅な香りが籠っている。そして後半に至っては、奇を衒わない陳腐な取扱方のうちに、新しい精神分析法の見解が含まれているのかも知れない。然しながら、ハリオットが初めに二度の清浄な恋をし、次に肉体的な恋をする、そのあたりから既に、それらの恋愛が生活から遊離しているのに対して、人間生活に関心を持つ読者は、何等かの焦躁を感ぜさせられないであろうか。そして最後に、ハリオットの霊がその肉体から脱しながら、肉欲を脱しきれずに、過去の恋愛の場面を彷徨するあたりになって、右の読者の焦躁は高まって、遂に書物をそこに投げ出すに至るかも
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