かで、自分を認識し名付け呼ぶことが、どうして出来ましょう。」
統制のないそれら思想の錯雑のなかでは、あらゆる率直な行動は障碍を受ける。そして意外な方向に彼を駆り立てる。彼は愛人の前でも、愛の素振り一つ出来ず、愛の一言も云えない。而も、友人の妻君の腋の下を瞥見しては、その女を犯す場面を想像して、自責に堪えず、そこを飛び出してしまう。思想と想像との区別がなく、現実と仮定との区別がないのである。そして何と莫大な脳力の徒らな消費だろう。
こういう神経衰弱は、現代に往々見受けられる。そしてそれは何から来るか。漠然とした焦躁からである。漠然とした不安からである。焦躁不安の余りの意欲の痲痺と神経の苛立ちからである。
病原は根深い。それを根治するには、漠然たる焦躁不安の原因をつきとめなければならない。
その原因は必ずしも貧困や失業にあるのではない。サラヴァンは貧困ではあるが饑えてはいなかった。そして或る日彼は、一人の少年が荷車をひきつつ書物を読んでるのを見て、羨望と羞恥とを感じたではないか。
本当の意欲を窒息さして現実から遊離した想念のうちに人を駆り立てる神経衰弱は、社会の各方面に、各種のサ
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