意欲の窒息
豊島与志雄

 文化が新らしい方向を辿らんとする時、その派生的現象として、社会の或る部分に停滞腐爛を起す。大河の流れの中に、小さな淀みが処々に生ずるようなものである。流れと共に動こうとしても、河床や河岸の一寸した影響のために、一つの岩石のために、そこに淀んでしまう。そしてその中で、動く意志さえも無くなってしまう。文化の進展を欲する者が必然に起す種々の意欲は、何等かの理由による停滞のために、そこで窒息してしまうのである。
 そういう意欲の窒息を、少し古いが、ゴンチャロフはオブローモフに於いて描出した。オブローモフは、数多の農奴を所有する富裕なロシアの貴族である。そして始終彼は、毛布のなかにもぐりこんで、微温と微睡とのうちに時を過している。何かの行動に当面すると、「何のために?」という考えが最初に出てくる。「何もかも面倒くさい。」というのがその結論である。彼は立派な教育を受けて、いろんなことを考えてはいる。然しやがて、何もかも面倒くさくなってしまう。
「高尚な願望の与える歓びも、彼に感じられないのではなかった。人類の不幸も彼は見ていた。時には人間の悲哀を想って、心の底で激しく泣き叫んだ。彼は云い知れない漠とした苦悩と哀愁とを感じた……。温かい涙は頬を伝わって流れた。全世界に拡がっている人間の不徳、虚偽、罪悪に対して、彼は憎悪を感ずることもあった……。様々な思想が心に燃え起って、頭の中を波のようにうねりまわった。それらの思想は、彼の全身の血を湧きたたせる決断に変ってゆく。彼の筋肉は動きそうになって、緊張し、今や意図が決断に移ってゆこうとする……。彼はある精神力に動かされて、寝台の中で身体の位置を幾度も変える。眼を据えて、半身を起し、手を動かし、感激した眼であたりを見廻す。感激はそのまま眼前に実現されて、今にも英雄的なある行動に変りそうに思われる……。しかし、朝が過ぎ、夕暮の影が寄せてくると、オブローモフの力は次第に弛んでくる。霊魂の嵐は鎮まってしまう……。血潮は血管の中をゆるりゆるりと流れる。オブローモフは静に寝返りをして仰向になる……。隣家のかげに沈んでゆく華やかな夕陽の影を痛ましげに見送る。――こうして彼は幾度、沈みゆく落日の影をその眼で見送ったことであろう!」
 こうして彼は、農民の状態を改善せんとの意図も、オルガとの恋愛も、凡てを懶く見送ってしまう。

次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング