もうここでは、何を意欲するかは問題でない。意欲そのものが必要なのである。窒息した意欲を蘇生させることが必要なのである。
 人の意欲を窒息させる雰囲気――他人の労働の上に寄生して不精懶惰な現状に執着する裕福な生活、物質的な快適さのうちに耽溺して、身を動かすことさえも億劫になる生活――そういうものは、オブローモフの時代にだけ、農奴解放以前のロシアにだけ、存在していたものではない。現在にも各種のオブローモフがある。
 それになお、現代のオブローモフは、種々の新らしい衣をまとって、吾々の前に立現れてくることがある。
      *
 現代の病弊の一つに、神経衰弱がある。その神経衰弱者の最もよいタイプを、吾々はジョルジュ・デュアメルのサラヴァンに見出す。
 サラヴァンはまだ生きて動いている。今後彼がどういう風になるか、それは作者デュアメル以外に誰も知らない。がサラヴァンの前半生、「深夜の告白」や「新らしき邂逅」の中のサラヴァンは、神経衰弱以外の何物でもない。
 彼は人類に対する愛を持っている。愛情を欲してもいる。人生の温かい調和を夢みてもいる。然し或る人間に当面し或る事実に当面すると、すぐに嫌気がさして苛立つ。現実に対する適応性が全くなく、常に孤立感に囚われる。そしてその孤立感のなかで、内省へ内省へと不断に駆り立てられる。内省の世界は無限に拡がる。些細な事件についても、あらゆる仮定が浮び、その仮定からくる想像的苦悩が起る。些細な事柄についても、あらゆる思想が浮び、どの思想を選択してよいかに迷う。そして不断の懐疑と懊悩との昏迷した状態。
「勿論世間には、」と彼は云う、「或る題目について思索しようと考えてその通りにする、ごく賢い恵まれた人々がいます。暗礁の散在する海上に船を操るように、自分の精神を導くことの出来る人々、本当に思索する人々、即ち思索したいことを思索する人々がいます……。が私ときては、大抵は河床です。私は騒々しい流れを感じます。そしてそれをただ容れてるだけです……。而も常に容れてるわけでなく、氾濫することさえあります。」
「私は自ら選択することが出来ません。さ迷ってるあらゆる思想が、私の魂の中に逃げこんできます。私に落ちかかってくるあらゆる種子が、私の中で芽を出します。そのなかで、私自身はどこに在るのか。その群集のうちで、どれが私なのか……。あらゆるそれらの顔付のな
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