かで、自分を認識し名付け呼ぶことが、どうして出来ましょう。」
統制のないそれら思想の錯雑のなかでは、あらゆる率直な行動は障碍を受ける。そして意外な方向に彼を駆り立てる。彼は愛人の前でも、愛の素振り一つ出来ず、愛の一言も云えない。而も、友人の妻君の腋の下を瞥見しては、その女を犯す場面を想像して、自責に堪えず、そこを飛び出してしまう。思想と想像との区別がなく、現実と仮定との区別がないのである。そして何と莫大な脳力の徒らな消費だろう。
こういう神経衰弱は、現代に往々見受けられる。そしてそれは何から来るか。漠然とした焦躁からである。漠然とした不安からである。焦躁不安の余りの意欲の痲痺と神経の苛立ちからである。
病原は根深い。それを根治するには、漠然たる焦躁不安の原因をつきとめなければならない。
その原因は必ずしも貧困や失業にあるのではない。サラヴァンは貧困ではあるが饑えてはいなかった。そして或る日彼は、一人の少年が荷車をひきつつ書物を読んでるのを見て、羨望と羞恥とを感じたではないか。
本当の意欲を窒息さして現実から遊離した想念のうちに人を駆り立てる神経衰弱は、社会の各方面に、各種のサラヴァンを作り出している。が更に、新時代には、生活衰弱者までが吾々の眼に映る。
*
生活衰弱も、近代の病弊の一つである。例を、手近に、竜胆寺雄氏の魔子にとってみよう。
魔子は、「からだのつくりは全体的に華奢だ。そこには近代的な実用の美も逞しい生活のエネルギーも感じられない。あらゆる美がそこでは消費的だ。没落した家系の裔らしいはかない美しさだ。一つはこれはブルジョア的な少女時代の生活環境の影響だが、皮下脂肪の沈澱がないので、見かけはからだも手脚も男の子のように繊すらと締っているが、発育の華奢な筋肉の中から時折痛々しく骨が覗いたり、要するにじき疲労する非生産的な靱かさがあるだけだ。」そういう彼女が、性情的には、男性的分子ばかり多く、女性的分子は次第に失われていって、「今では申しわけほどちょっぴりと、それが左手の薬指の先だとか、靴の踵だとかに残っているだけで……男の子と変りがなくなってしまっている。」
十八歳の断髪のそういう彼女は、銀座裏の豪華なカフェーの屋根裏に、夫であり愛人である年若い建築美術家と暮している。そして新しい映画を見に出歩き、卓子大のチョコレートを夢想し、湯
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