或る夜の武田麟太郎
豊島与志雄

 その昔、といっても日華事変前頃まで、所謂土手の小林は、吾々市井の酒飲みにとって、楽しい場所だった。
 この家は終夜営業していた。この点では品川の三徳と双壁だが、三徳の方は深夜になると戸を閉めるのに反し、小林の方は夜通し表戸を開け放しなのである。いくら顔馴染みだからといって、表戸が閉ってるのと開いてるのとでは、大いに違う。開け放してあれば、ぬーっと、或はのっそりと、はいりこむことが出来る。
 小林は馬肉屋なのである。酔っ払ってから馬肉などと、眉をひそめてはいけない。深夜、二時三時頃ともなれば、殆んど夕食を摂っていない酒飲みの腹は、さすがに空いてくる。馬肉の一鍋ぐらいは適度に納まる。味噌煮だから、酒と莨に荒れぎみの咽喉や胃袋には、味噌汁と同様の効果がある。馬肉は上肉と下肉とでは大変な違いで、上等なヒレともなれば牛肉にも劣らない。それを空腹に納めて、あとはただ猪口をちびりちびりと、煮えるに任せた鍋をぼんやり眺めているのも、達人の域にあってはまた風流なものである。
 小林では殊に酒がよかった。何という酒か、その名を遂に聞いたことはなかったが、口には実に味よく
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