或る夜の武田麟太郎
豊島与志雄

 その昔、といっても日華事変前頃まで、所謂土手の小林は、吾々市井の酒飲みにとって、楽しい場所だった。
 この家は終夜営業していた。この点では品川の三徳と双壁だが、三徳の方は深夜になると戸を閉めるのに反し、小林の方は夜通し表戸を開け放しなのである。いくら顔馴染みだからといって、表戸が閉ってるのと開いてるのとでは、大いに違う。開け放してあれば、ぬーっと、或はのっそりと、はいりこむことが出来る。
 小林は馬肉屋なのである。酔っ払ってから馬肉などと、眉をひそめてはいけない。深夜、二時三時頃ともなれば、殆んど夕食を摂っていない酒飲みの腹は、さすがに空いてくる。馬肉の一鍋ぐらいは適度に納まる。味噌煮だから、酒と莨に荒れぎみの咽喉や胃袋には、味噌汁と同様の効果がある。馬肉は上肉と下肉とでは大変な違いで、上等なヒレともなれば牛肉にも劣らない。それを空腹に納めて、あとはただ猪口をちびりちびりと、煮えるに任せた鍋をぼんやり眺めているのも、達人の域にあってはまた風流なものである。
 小林では殊に酒がよかった。何という酒か、その名を遂に聞いたことはなかったが、口には実に味よく、そして甚だ水っぽく稀薄なのである。すぐ近くが吉原の大門で、そこを出入りする人には気の毒であるが、この大門に用のない吾々にとっては、水っぽくて美味な酒が有難かった。もっとも、小林でいつもそういう酒を用いていたかどうかは分らない。海千河千といった気の利いた女中がいたので、酔っ払いの客にだけ特に出してくれたのかも知れない。その酒を飲んでいると、酔いざめの水の作用までしてくれて、東が白む頃までには、全くお誂え向きの程度にまで酔いがさめてくる。少くとも、外が明けるまでうまく飲み通せるのである。
 この小林で、私はしばしば武田麟太郎に出会った。両人とも、小林に始終行きつけていたわけではない。なにかこう人生をまた文学を摸索しあぐんで、お互いの思惟内容は多少異りながらも、市井のゲテ飲酒のうちに彷徨するという、そういう時期がたまたま一致したのでもあろうか。いや、そういう時期は両人とも幾度か持ったので、或は常に持っていたので、ただ小林に足が向きがちな時がたまたま一致したのであろう。
 不思議なことに、武田と私は、どちらも一人きりの時に出会った。武田の方に連れがあるか、私の方に連れがあるか、そんな時に出会ったことは一度も覚えていない。そして出会ったのはいつも深夜だ。つまり、どちらも、さんざん何処かを飲み廻って、連れの友人たちとも別れてしまい、ただ一人でふらりと小林に足が向いた、そういう恰好だったのである。
 深夜、私が馬肉の鍋に差し向い、美味で稀薄な酒を相手に、ぼんやりしていると、武田がのっそりはいってくる。また、深夜、私がふらりとはいっていくと、武田が一人ぼんやりしている。海千河千の気の利いた女中が、奥の小部居で両人を一緒にしてくれるのである。互に顔を合せても、やあ、と言うきり、会釈代りの笑顔さえも不用で、何の遠慮もなく、餉台に向い合って、食いたければ勝手に食い、飲みたければ勝手に飲んだ。あまり話をするでもなく、心に止ってる言葉とてもない。
 ところが、或る夜、らっきょうが小皿に山盛りに出ていた。そのらっきょうを、どういうわけだったか、私は歯で一皮一皮むいて、猿のようなやり方で、一皮ずつ食べていった。最後の芯まで一皮ずつ食べていった。幾粒か食べてるうちに、武田が突然笑いだした。
「まるで僕みたいだ。」
 私は顔を挙げた。
「え、いつもこんな食い方をするのか。うまくないよ。」
「いや、らっきょうが……。いくら皮をむいても、何にも出て来ない。」
 武田はまた笑った。私も笑った。朗かな笑いだった。
 いくら皮をむいても何にも出て来ない、つまり、如何に裸になり真剣になっても大した仕事が生れない、と言うのは武田の卑下であって、彼は確かな芯を持っていた。私自身、いくら皮をむくつもりでも、すっかりはむけないし、大した仕事も生れ出ないことを、自ら歎じてはいたが、それでも芯についての自信はあった。だから二人とも声を揃えて、朗かに笑った……らしい。
 笑ってしまえば、もうそれでよいのだが、さて、芯の問題を離れて、皮の問題だけが残ったのである。そして私達は珍らしく、文学論……というよりは作家論を初めた。
 一皮むけば違った人間になる、つまり嘘かごまかしかの皮をかぶってる、そういう作家が最も下等だ、という前提のもとに、私達は仲間の文学者達を批判した。このことについて、武田は厳粛であり痛烈であり尖鋭であった。――この時の彼の意見を述べれば長くなるし、また酔余の論議なので私は充分に記憶していない。
 ただ、こういう作家論を痛快にやってのけた武田自身こそ、嘘やごまかしの皮をかぶること最も少い作
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