家であり、否殆んど皮のない作家だった。彼は高邁な文学精神を持って市井にもぐりこんだが、その高邁な文学精神と創作実践に於ける取材対象と、両者の間に何等の間隙も認められないことは、作家としての彼の嘘の無さ、ごまかしの無さを、立証するものであると私は考える――よりも寧ろ私は感ずる。この私の直感は、彼について常に動かし難いものである。
らっきょうには芯はなかったが、武田にはそれがあった。あのごまかしの無さを以て、武田が自分の芯をさらけ出してくれることを、程近いと私は期待していた。茲に言う芯とは、告白めいた感想とか自伝風な作品とかではなく、文学や生活をひっくるめた理念、人生観、というほどの意である。彼が急逝したことは惜しい。彼自身も今死のうとは思いがけなかったろう。
さて、あの晩、私達は珍らしく放談したが、酒も聊か飲みすぎて、さめるどころか更に酔い、いつしか私はうとうとと眠ったものらしい。横になったり、また坐ったり、そういうことを繰り返していたのを覚えている。
なんだか薄ら寒い心地で眼をさますと、硝子戸の外はもう明るかった。私は一人だった。立っていって、梯子段の上から手を鳴らし、女中に熱い酒を頼んだ。
餉台の上には、新らしい莨の一袋があった。それを吸っていると、酒が来た。
「ずいぶん、お酔いんなったわね。余り飲ませるなって、武田さんが、そう言ってたわよ。」
「自分のことを棚にあげてね……。武田君、どうしたんだい。」
「もう、さっき、お帰りんなったわ。あんたに、枕をさせて、宜しく言ってくれって、親切だったわよ。喧嘩でもなすったの。」
「ほほう、喧嘩のあとの親切か……。」
なにか変梃で、私は気持ちがはっきりしてきた。
「武田君が、ほんとにそんなことを言ったのかい。」
「なによ。」
「余り飲ませるな、……そして、宜しくって、そんなことを言ったのかい。」
「ほんとよ。どうして……。」
女中は怪訝そうに私の顔を見た。が私は、じっと武田を見ていた。
武田はたいてい、はたには全く無頓着に、謂わば傍目もふらずに、別れ去るのだった。
大体、酒宴の席から去るのに二つの型がある。主賓席に挨拶して、所謂フランス風に立ち去るのと、殆んど挨拶なしに、所謂イギリス風に消え去るのと、二つの型だ。これが、飲み仲間だけの酔後には、大きな差を作る。相手を物色して、見失わないように連れ立って歩き、腕を組み肩を抱えまでするのが、一つ。も一つは、連れがあろうとあるまいと、そんなことには頓着なく、恰も自分一人ででもあるかのように、気の向く方へ、鼻の向く方へ、さっさと歩き去ってゆくのだ。
武田はたいてい後者だった。他人は眼中になく、独立独歩の調子だった。最近、周囲に対する顧慮を聊か示すことが多くなったようで、社交的になったのかなと、私は内心微笑したものだった。小林で飲んでた頃は、二人で対坐していても、何かをふと思い出しでもしたかのように、すっと立ち上ることも珍らしくなかった。もっとも、私の方にもそんなことはあった。
だから、あの夜明け、武田が親切だったと女中に聞かされて、私はちょっと腑に落ちない気がすると共に、へんに淋しい心地になった……それを、今、はっきりと思い出すのである。
日華事変から次で戦争中、多年、私は武田に逢わなかった。だがいつも親しい気持ちでいた。終戦後、逢う機会が多くなり、武田のうちに或る種の社交調を見出して、ちらと微笑めいた落着かなさを感ずることがあった。そして、いつかゆっくり二人で飲みたいものと思った。
その武田が突然、まったく突然、亡くなってしまった。過労になるほど仕事をしなくても、と思うのは、吾々凡根の故か。ただ、私は淋しい。武田が居なくなったことが淋しい。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
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