或る日の対話
豊島与志雄

 過日、あの男に逢った時、私は深い寂寥に沈んでいた。
 朝から陰欝に曇っていて、午過ぎに小雨があり、それからはいやに冷かな湿っぽい大気が淀んでいたところ、夕方近くなって、中天の雲が薄らぎ、明るい斜陽が地上に流れた。
 その斜陽に輝らしだされた軒並や焼跡を、硝子戸越しに、椎の木のまばらな枝葉の間から、私はぼんやり眺めやった。硝子戸の外の椎の木から先は、低い崖になっていて、谷合めいた低地が続き、そこにぎっしり人家が立ち並び、その先方に丘陵がもりあがり、丘陵の上下の縁は空襲による焼跡で、その向うは、人家を包みこんだ木立になっている。その全体の眺望が、へんに静かだった。
 低地に立ち並んでいる人家は、住宅も商店も二階建ての小さなもので、埃や煤にまみれた瓦屋根を、ひっそりと斜陽に露呈している。それだけのことで、人の姿はもとより、一筋の煙も見えない。電車の音もせず、何かの動く気配もない。こういうひっそりした合間の時間が、町のなかに、町の上に、あるものであろうか。一瞬間私は、無人の町の錯覚に囚えられた。屋根並みがぎっしり込んでいるだけに、動くものの皆無な無人の町の印象は、生きながらの死を感じさせるものがあった。
 これにすぐ、焼跡が続くのである。黒こげの枯木、崩れかけた石段、赤茶けた瓦礫の土地、ぽつりと立ってる白御影石の小さな鳥居など、それらも斜陽にてらされて、ひっそりとしている。その向うの木立も、淡い紅葉を交えて、恐らく木の葉だにそよがないかのように静まっている。その中から一つ、黒ずんだ五重塔が空に突き出ている。
 それら凡てを輝らす斜陽、薄曇りの下を明るく流るる斜陽が淋しく佗びしくそして余りに静かであった。
 斯かる眺望全体の、ひっそりとした静けさは、やがて、寂寥へまで深まっていった。動くものの何一つなかったことが寂寥の機縁であったであろうか。そればかりではない。私の心の中にも、それに相応するものがあったのである。
 小雨ぎみの曇り空に、そしてまた地上に、いつのまにか流れ渡ってきた明るい静かな斜陽は、終戦後にもたらされた自由に似ていた。完全なる敗戦と降伏、旧体制の瓦解と共に為さるる無血革命、平和主義の文化国家建設への進路、それらを輝らしだす恩恵の自由は、あまりに静かであった。本来、急激な思想の自由は狂暴なものである筈のところ、これはあまりに静かであった。戦い取られたものではなく、外から与えられたものであったからであろうか。
 自由のこの静けさの故に、それを享受する吾々の心の中に、ほっとした休息の瞬間、思惟をやめておのずから眼を伏せる瞬間、なにか喪に似た寂寥が浮びあがってくるのである。
 何に対する喪か。見渡したところ、その対象は見当らない。軍部や官僚や財閥の崩壊は、ただ徹底的ならんことが望まれるばかりである。軍国主義や封建主義の払拭は、一抹の残滓をも残さざらんことが望まれるばかりである。其他、何処にも何物にも未練は持たれない。勝利を失ったことについても、聖戦ではなくて侵略戦だったことが明かな今日では、もはや遺憾とは考えられない。戦場や被空襲地で斃れた多くの同胞については、限りない哀悼の感を覚えるが、この回顧的な悲しみは異質なものである。それでは、この喪に似た寂寥は何か。
 全然新たな時代なのである。たとえ夢想され翹望されたことはあっても、実現は遠い将来と思われていた、その自由の世界へ、即刻只今から、新たに発足するのである。ここで吾々は、旧きもの一切を脱ぎ捨てて、新らしき一切のもののなかにはいり込んで行くのである。譬えて言おうならば、呼吸する大気も新らしく、足に踏む大地も新らしく、口にする食物も新らしく、身にまとう衣服も新らしく、机、ペン、鉛筆、酒、煙草、すべて新らしいとしてみよう。その時、獅子も新たな森にはいる時ちょっと立ち止るように、吾々も一足止めて、深く息をするであろう。
 この息の間に、旧きものの喪が忍びこんでくる。今迄の大気や大地や食物や衣服や酒や煙草の、最後の残り香は、まだ身辺に立ち迷っているのである。それは第一義的なものではなく、思想や理念を柔かくくるむ雰囲気に過ぎない。だが、そういう雰囲気は旧き世界にのみあって、新たな世界にはまだ醸成されず、思想や理念はすべて荒々しく露呈され、そこに踏み込む吾々にも謂わば心身の赤裸が要請される。
 而も、この新たな世界は、吾々自身の力によって戦い取られたものではなく、突如として前途に開かれたものである。吾々は国際的にはただ敗戦国民の一員に過ぎない。国家を無視して、個人から民族から人類へと眼を走せ、人間の新世紀を想見する時、そこに於いて、顧みて自己の孤立が感ぜられる。そこには、知人もなく、友人もなく、恋人もない。吾々は単独で途を切り開かねばならない。発足は同時に開
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