拓でもある。
 足下に、きびしい境界線が引かれているのである。この一線を真に乗り越すには、決意の合間のたゆたいの一瞬、深い寂寥に堪え得なければならない。
 斯かる寂寥を、誰が感じたか、また誰が感じなかったか、私は厳密に設問したく思う。返答は応か否かの二つしかない。否の返答者については、新時代の名において、私はその人の言動の誠実さを疑いたい。
 そういう瞑想は、更に私を寂寥の深くへ沈ませた。眼前のひっそりとした眺望と、それに伴う瞑想とは、互に表裏をなしてもつれ合い、それが明るい静かな斜陽に輝らされてるだけに一層淋しく、その時もしも私に恋人があったならば、恐らくその名を私は呼んだでもあろう。
 そこへ、あの男がやって来たのである。

 私は黙って彼を見た。殆んど無表情だったに違いない。彼は詮索するように私の顔色を窺った。その視線のもとで、私は泣きたいような気持ちになった。
「また、何かくだらないことを考えていたんだね。」と彼は言った。
 その言葉は冷かに私の胸を刺した。普通ならば反抗するところだったが、寂寥の底にいた私は逆に、甘えかかっていった。硝子戸の外の淋しい眺め、内心の淋しい思いを、彼に訴え始めた。
 彼は寛大に終りまで聞いてくれた。何度かうなずいて、同情のしるしまでも示した。それから静かな調子で言った。
「お前の気持ちは、よく分る。それについて、俺の意見はあとで言おう。実は、俺の方でも、お前に話したいことがあるんだよ。」
 話したいことがあるなどとは、彼としては実に珍らしい。私は彼の顔を見守った。彼は暫し、話の糸口を探すらしく何か考えていたが、やがて話しだした。
「お前が知ってる通り、この頃、俺の家には大勢の者がいる。それで、食糧難がますますひどくなってきたんだ。」
 つまらないことを言いだしたものだと私は思って、ただ耳だけかしながら、煙草をふかして外を眺めた。彼は構わず話し続けた。
「叔父夫婦や従妹夫婦やその子供たちや、女中まで加えて、十人になるものだから、配給の食糧だけでは、まあ五人分しかないし、五人分はいつも補給しなければならない。この五人分というのが、副食物の分量を計算してのことだから、面倒なこと限りがない。経済的にもそろそろ破綻しそうだが、それよりも手数がたいへんだ。家に坐ってては、それだけの分量、なかなかはいらないので、従妹の夫は殆んど買い出しにかかりきりという有様さ。而も、そんなにしても手にはいるものといっては、肥料の足りない痩せた菜っ葉だとか、腐りかけた鰯の干物だとか、冷凍の鯨だとか、まるで話にならん。一方では、砂糖は既に払底、塩も極度に不足、味噌醤油はとぎれがちという有様。これで無事に生きてるのが不思議なくらいだ。
「一体、東京の人口は半分になったといっても、まだまだ多すぎるよ。用のない人間がうようよしているし、焼け残りの家の中にうじゃうじゃつまっている。呆れたもんだね。然し、呆れてばかりいては、生存に必要なカロリーも取れやしない。俺の愛する娘も、だいぶ栄養失調の恐れが濃厚になってきた。
「外の者はどうでもよいから、せめて娘にだけは腹一杯食べさせたいと、俺はいつも思っているんだ。そして、何かとごまかしては、なるべく旨いものを食べさせようとたくらむんだが、娘はただばか善良で、これは叔父さまに、これは叔母さまに、これは何々ちゃんにと、少しでも美味なものはみな外の人に廻して、自分の口には入れない。
「そこで俺は、計略を用いたよ。或る時、これはまた実に珍らしく、実に特別に、砂糖の粉がふいてる甘いヨウカン二本手に入れた時のことだが、玄関につっ立ったまま、娘を呼びだして、近くの神社に連れて行った。そこの境内の池の中に、海亀が泳いでいたというわけさ。行ってみると、どこかへ隠れている。俺と娘は池のふちの腰掛に坐って、海亀の出てくるのを待った。待ちくたびれてきた頃、俺はヨウカンを出して娘にたべさせた。叔父夫婦や子供たちへのヨウカンは、別に風呂敷包みの中にいっぱいはいっているのだ。娘は一本のヨウカンを半分たべ、俺もお蔭で半分たべた。あとの一本は、食べなければ海亀にやるぞとおどかして、娘にたべさせた。
「それで万事終った。海亀なんぞもともといやしない。風呂敷包みの中は、開けてみれば書物だけだ。それを知って、善良な娘は眼に一杯涙をため、堪えられなくなって、一滴か二滴ぽとりと落した。
「だが、その後で、俺は淋しくなった。たとえ親子の間でも、こんな人情はけちくさくていかん。そんなものは克服しなければいけない。青空を仰いで大きな息をしたいものだと、眉をひそめて考えたよ。――この話、お前はどう思うか。」
 私は返事もせず、彼の方を振り向きもしなかった。彼の話には、初めから皮肉な調子がこもっていて、それが次第に強くなり、話そのものまで眉を
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