みながら、河野さんとの決闘の計画をまた思いめぐらしてみた。
 然し今考えると、私は本当に河野さんと決闘するつもりではなかったらしい。ただ息苦しさの余りそういう空想に縋りついていったものらしい。河野さんからの借金の額を俊子に尋ねもしなかったし、金を拵えようともしなかったし、拳銃を手に入れようともしなかった。そして松本に逢うと、その決心は跡形もなく消え失せてしまったのである。
 私が光子に逢った日から中二日おいて、雨のしとしと降る三日日の午前、松本がふいにやってきた。
 その時私は二階の書斎で、火鉢にかじりついて雨音をぼんやり聞いていた。前々日来一歩も外に出ないで、会社のことなどは勿論頭の外に放り出し、飜訳のやりかけにも手をつけず、ただ息苦しい空気の中に浸り込んでた間の時間が、非常に良いことのように思われた。そして影絵のようにぼんやりと、いろんなことが見渡されて、陰欝な佗しい影に包み込まれた。これまで嘗て、これが本当の自分の仕事だと思って働いたこともないし、はっきりした心の苦しみや喜びを感じたこともないし、物事に対して明確な批判を下したこともないし、妻や子を真面目に愛したこともないし、ただ
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