にも二室に仕切られていたので、私は狭い方の室を占領して、葡萄酒一本と林檎のパイ二人前とを註文しながら、女が一人訪ねて来たらすぐに通してくれとボーイに頼んだ。そして一人になると、腰掛に坐っておれなくて、室の中をぐるぐる歩き出した。期待の念にわくわくしながらも、心は深い穴の底へでも落ちて行くかのような気持だった。然し私は長く待たされはしなかった。註文の品が運ばれて、葡萄酒を一杯飲むか飲まないうちに、光子は性急な足取りで階段を上ってきた。
 彼女は電話口に出て来た時と同じ服装のままですぐにやって来たものらしい。着くずれた銘仙の着物にメリンスの帯をしめていたが、髪だけは綺麗に取上げて、大きな鼈甲の簪を一つ無雑作に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]していた。ボーイが開けてくれた扉を斜め後ろ手に閉めきっておいて、挨拶もせずに私の方へつかつかと進んできた。その様子を一目見ると、私はもう何もかも駄目だという衝動を受けた。顔は真蒼と云ってもいいくらいに血の気が失せ、変に総毛立って、化粧のためにぼーと鼠色の陰を帯びていた。唇がかさかさに乾き、痙攣的に震える眉の下から、
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