ら一寸はいった洋食屋の二階にした――それからわざわざ自動電話を探して、河野さんの家へ――光子へ――電話をかけた。私はごく冷静に落着き払って、それだけのことをしたのである。
 電話口に出て来たのは、たしかに光子らしかった。所が私が名前を云うと、向うはぴたりと口を噤んでしまった。話しかけても答えがないので、「もしもし」と呼んでみると「はい」という返辞がした。話しかけるとまた答がない。呼ぶと返辞だけする。そんなことを三度ばかり繰返した後、私は確かに光子が聴いてだけはいると信じて、是非逢いたいことがあるから来てくれと繰り返して執拗に頼んだ。所がやはり答がなかった。私は暫く待ってから再び懇願した。すると突然怒ったような声が響いた。
「それでは参りますわ、じきに。」
 そして電話は切られた。私はぼんやり自動電話の箱から出て、約束の洋食屋へやって行ったが、どうしたのか、目的を達したという喜びは少しも感じなかった。否喜びどころではなく、次第に不安を感じてきた。
 可なり立派な西洋料理店だったが、朝のうちのせいか、階下の広間に四五人の客がいるきりで、落着きのない静けさにがらんとしていた。二階に上ると、幸
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