そして、私が腰を下ろしてからやや間を置いて、改まった調子で初めて口を開いた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」
「いいえ別に……。」そして私は一寸落着かない心持で尋ねた。「何か急なお話があるんですか。」
「ええ、是非先生に聞いて頂きたいことがございましたんですけれど……。」
 だんだん語尾の調子をゆるくしながら口籠ってしまって、変に固苦しくかしこまった。その様子を私はじろじろ見やりながら、遠廻しにそれとなく話を引出そうとした。然し彼女はなかなかそれらしい話を切出さなかった。河野さんの家に於ける生活状態などを、私の問に対して簡単な文句で答えはしたが、心が外に向いてることは、その様子にも明かだった。時々辻褄の合わないことを云っては、それを自ら意識してる風もなく平気で、私の方へちらと黒目を向けるのだった。
 黒目を向ける……とは変な云い方だけれど、実際彼女の眼には特長があった。私は初めて彼女に逢った時から、その眼に一寸興味を惹かれた。初めて逢ったと云っても、そう遠い前のことではない。今年の六月、一寸した用件のついでに、北海道を暫く旅して廻って、登別の温泉に泊った時、髪の結い方か
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