《せ》いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分|懶《なま》け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。
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