います。」
「君は全くの理想家だね。」と私は冷かに云った。
「ええ、私は理想家です。自分のあらゆる行動を理想で律してゆきたいと思っています。単なる理想でなしに、実際の行動をも支配するほどの強い理想が、本当に新らしい時代を生長させるのであって、もし……。」
 云いさして彼は俄に口を噤んだ。私の皮肉な眼付に気付いたのだろう、ぴくりと眉根をしかめて、眼を伏せてしまった。私は空嘯いて煙草を吹かした。彼が理想家であることは前から分っていたが、その理想を光子に対しても応用して……そして、彼が光子に長々と恋愛論をしてきかしたという話を、私はふと思い出したりして、変に皮肉な苦笑的な気持が募ってきた。
「まあ君の理想はいいとして、一体光子さんの方は、君に対してどうなんだろう?」
「私を愛しているようです。ただ私が苦痛なのは……。」
 彼はまた口を噤んで私の眼を見た。
「何が苦痛だって?」
「一昨日私の所へ飛び込んできたのは、本当に私が恋……私を愛してるからか、それとも一時河野さんを避けるためにぼんやり頼ってきたのか、その辺がよく分らないんです。」
「君が苦痛だというのは、ただそれだけなのかい。」
「それだけって……。」
「君は光子さんをどんな女だと思ってるんだい。」
「比較的真正直な怜悧な……いや何だかよく分りません。」
 彼は急に苛立ってきた。私はそれをなおつっ突いてやった。
「例えば、河野さんと実は関係がついていたり、北海道でいろんなことがあったり、そんな風な奔放な女だったとしたら?」
「え、そんな女でしょうか。」
「いやそれはただ仮定だよ、君の気持をはっきりさせるためにね。で、もしそうだったとしたら、それでもやはり君は、彼女を愛し続けてゆけるのか。」
 私の執拗な眼付に対して、彼は顔を伏せて暫く唇をかみしめていたが、やがてきっぱりと云った。
「愛し続けてゆきます。責任上愛し続けるつもりです。」
「責任だって?」
 然し彼は口を噤んで答えなかった。私には今以て、それがどういう責任の意味だか分らない。彼はやがて徐ろに云い出した。
「私はお宅で初めて光子さんに会って、それから次第にこういう気持へ落込んできたのですが、光子さんの身の上については実際よく知ってはいないんです。もし何か……ありましたら、教えて頂きたいのですが。」
「僕だって何も知りやしないよ。まあ、過去として葬るがいいさ。」
「でも……。」
 私は彼の露わな眼付にぎくりとした。と同時に、話の工合がいつしか自分にとって危険なものとなってるのを感じた。それで話の方向を一度に変えてしまった。
「で結局君は、どういうことにするのが一番望みなんだい。」
「私は、出来るならば、光子さんを暫くお宅に置いて頂いて、私と交際を許して頂きたいんですが。」
「今だって君は、自由に交際してるんだろう。」
「文通はしていますが……。」
「交際はしていないというのかい。へえー、僕はまた君達をもっと深い間柄だと思っていた。」
 少し腹立ち気味の反抗的な気勢で、腕を組み眼を伏せて考え込んだ彼の姿を、私は小気味よく眺めやった。それを余りひどいとでも思ったのか、俊子が突然中にはいってきた。
「理屈はどうだって、兎に角光子さんをこのまま河野さんの所へ置いとくのはいけませんわ。北海道から遙々頼ってきたのをあすこへやったのですから、あんな話を聞いてこのままにしておくのは、私達としても済まないじゃありませんか。」
「だから僕はどうしたものかと考えてるんだよ。」と私は云った。
「あなたはいつもそれですもの、考えてばかりいて、はっきりと決断なすったことは、一度だってありゃあしません。そんな風では、いつまで待ったって片付くものですか。」
「ではどうすればいいんだい?」
「もう松本さんの心はきまっていますし、この上は光子さんの心だけでしょう。私が参って、一体光子さんはどう思ってるか、それをよく聞いてきましょう。河野さんには義理もあるけれど、穏かに話をすれば、あれだけの人ですもの、そう分らないことは仰言るまいと思いますわ。」
 勿論それ以外に解決の方法がありようはなかった。然し彼女の調子は幾分私を驚かした。前から一々準備したようによく整った簡潔な文句を、もうきまりきったことのようにきっぱりと云ってのけて、それで一挙に事柄を決定してしまったのである。私にくどくどいろんなことを述べ立てて相談した彼女とは、すっかり異った調子だった。恐らく彼女は、私と松本との話を聞いてるうちに、何となくそれだけの決心を強いられたものらしい。そう私は咄嗟の間に感じて、何故となく不安の念に駆られてきた。
「勿論お前が行ってくれなければ、外に一寸行く人はないんだけれど……。」
「だから私が行きますわ。ねえ、松本さん、それでいいでしょう?」
「ええ。済みませんが、そう
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