ことが出来た。殊に私のそういう皮肉さを助長するかのように、松本は私が晩酌をやってる所へ飛び込んできたのである。
 晩酌は私の日課になっていた。そしてその晩の晩酌は、いつもより少し長引いていた。俊子がくどくどと先刻の話を繰返すのへ、ぼんやり耳だけを貸しておいて、私は自分の陥った落莫とした心境に、じっと心を潜めていた。食事を済した子供達が隣りの室で、「チイチイパッパ、チイパッパ、雀の学校の……。」といったようなことをして遊んでるのを、靄越しにでも見るような不思議な心地で、ぼんやりと眺めながら、知らず識らず杯の数を重ねた。そこへ松本がふいに姿を現わした。彼は座敷へ通されるのを待たずに、私達がいる茶の間の方へ自分からやって来た。その自信ありげな露わな眼付を見た時、私の気持に不思議な変化が起った。今までもやもやと立罩めていた霧が急に霽れて、自分の周囲がぱっと明るくなったような心地だった。そして私の頭には、三人の子供を隣室に遊ばせ、台所に女中を控えさし、妻を側に坐らして、その真中に納まりながら――何の能もない自分が家庭という巣の中に納まり返りながら、酒にほてった赤い顔をし、額に泰平無事の快い汗をにじまして、ちびりちびり晩酌をやってる、おめでたい自分の姿が、一瞬の間はっきりと映ったのである。それは単にその晩だけの姿ではなくて、これまでの良い家庭生活を通じての、総括的な自分の姿だった。私は突然或る反抗心に駆られて苛立ったが、それに光子のことがからまってきて、次の瞬間には、反対にぐっと皮肉に落着いてしまったのである。
 松本は私に一寸挨拶をしておいてから、いきなりこう云い出した。
「奥さん、光子さんは帰っていますよ。」
 それを聞いて、俊子が変にぎくりとしたことを、私は後になって思い出した。後で分ったことだが、俊子は既にその時から、私の珍らしい外泊や帰宅後の様子などによって、一抹の疑惑を懐かせられて、そのために却って、私の行動については一切尋ねなかったものらしい。でもその時私は、そんなことには少しも気付かなかった。
 私は松本に対して、皮肉な調子に出てしまった。
「だいぶ面白い話があるそうじゃないか。」
 松本はちらと私の方を見たが、すぐに眼を伏せてしまった。それへ、俊子が気忙しなく尋ねかけた。
「え、光子さんはいつ頃帰ったのですって? どうしてあなたにそれが分りましたの?」
 松本は一寸考えてから答えた。
「私は昨日から、光子さんの行方が心配でならなかったんです、何だかひどく苛立ってるようでしたから。それで、今朝また河野さんの家へ電話をかけてみました。所がまだ帰っていないとの答えです。それから、晩になっても一度かけてみました。出て来たのは確かに光子さんです。月岡さんおいでですか、と私が云うと、はい、という返辞でしょう。私はすっかり喜んで、松本です、と思わず云ってしまったのです。すると、それからいくら呼んでも返辞がありません。でも確かに光子さんです。何を私に怒ってるんでしょう。」
 それから変に皆黙り込んでしまった。私は松本の綺麗にかき上げられてる髪に眼をつけていたが、三四杯酒を干してから、煙草に火をつけながら尋ねてみた。
「一体君、初めからどういう話なんだい。」
 松本は苦しそうな表情をしたが、底に頼る所ありげな諦めの態度で、一切のことをまた話してきかした。私は既に光子からと俊子からと二度も聞いてるその話を、新たな興味で聞き初めた。そして実際彼の話は、光子のそれと違って、落着いたしっかりした歩調で進んでいった。最後には、私が草野さんに相談して必ずあなたを救い出してあげるから、二三日辛抱して待っていてくれと、固く約束をしたから……とそんなことがつけ加えられた。
 私は心に一種の圧迫を感じてきたが、それを強いてはねのけるようにしながら、じかに突込んでいった。
「君は一体、本当に光子さんに恋してるのかい?」
 松本は少しもたじろがなかった。
「今の所恋してるかどうかは自分にもはっきり分りませんが、愛してることは確かです。」
「愛と恋と違うのかい。」
「私は違うと思っています。」そして彼の眼は輝いてきた。「私が深く光子さんを恋していたのでしたら、一昨日の晩、別々の室になんか寝なかったろうと思うんです。夢中になって取返しのつかないことをしたろうと思います。また、恋しても愛してもいなかったとしたら、別な興味で臨んでいったろうと思います。私はこう思っています。男が女と肉体的に接触する場合は、深い恋か単なる性慾かのどちらかだと。所が私は光子さんに対して、盲目的な深い恋を感じてもいませんし、単に性欲で臨むほど無関心でもいません。何と云ったらいいですか、こう……あの女《ひと》を清くそっとしておきたいというような心持、愛……愛です。私は本当にあの女《ひと》を愛して
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