お願いします。」と松本はきっぱり答えた。
私は自分の立場が急になくなったような気がした。と一方には、それを自ら皮肉に顧みる気も起って、松本に杯をさしたりなんかしながら、こんなことを云ったものだ。
「そうきまったからには、もう君も心配しないでいいよ。なあに場合によっては、河野さんと一談判したって構わないし、僕達で君達二人の間の媒妁人になってもいい。」
何て馬鹿なことを私は云ったものだろう! 心ではつゆほどもそんなことを思ってはしなかったのだ。明日一杯明後日までには何とかなるだろうという約束で、松本が再び元気づいた自信ありげな眼付をして帰っていった後、私はなお酒の燗を命じてちびりちびりやりながら、そんなにお目出度く事件が片付くものかと考えて、理想主義者の松本のために――この理想主義者だということが、なぜだかその時私にはひどく必要だった――彼理想主義者のために、軽蔑的な苦笑が自然と浮んできた。それから、片付かないとすれば一体どうなるのだ? という所へ考が落込んでいった時、訳の分らない憤りと苛立ちとを覚えてきた。私の方をじっと窺っているらしい俊子の落着き払った様子にも、私はまた心を乱された。
「明日は大役だよ。よく考えて失敗《しくじ》らないようにしなければいけない。」などと私は平気を装って云ったが、口元の軽い震えをどうすることも出来なかった。
然し彼女の答えは、冷淡な調子ではあったが、案外素直な不平のみに止った。
「あなたがあんまり呑気で意気地がないから、こんな役目までも私がしなければならないんです。」
そしてなお幸いなことには、彼女は子供の面倒をみてやらなければならなかったし、私は銚子に残ってる酒を飲みながら、すっかり酔っ払った風をすることが出来た。
実際にも私は少し酔っ払ってたかも知れない。その晩いくら酒の廻りが悪かったからといっても、平素よりは随分長く多量にやったのだから。そして布団の中に蹲りながら、陰欝な妄念に弄ばれてるうち、私にも似合わない決心をしてしまった。その決心が翌朝になると、自分のこれまでの生活に対する反撥心から、更に益々固められた。
私は学校を出ると間もなく結婚して家庭を持った。勿論恋愛結婚やなんかではなく、私の例の煮えきらない態度のために、いつしか媒妁人のために引きずり込まれてしまったのである。然し妻の俊子は善良な女だった。私によく仕え家庭をよく整えてくれた。そして三人の子供を設けた。家族が増すにつれて私の収入だけでは生活困難だったけれど、一番上の子が病気で入院した時をきっかけに、金のいる時にいつも妻が河野さんから借りてくる習慣になってしまった。河野さんは昔妻の父から恩義に預ったことがあるとかで、心よく私達の世話をしてくれた。向うでは何でもないことだったろうけれど、実業界に羽振のいい河野さんがついていてくれることは、私達にとっては非常に力強く、自然とその庇護に安んずるような惰性がついた。そして表面上、私達はまあ幸福な生活をしていたのである。所がその安穏幸福というやつがいけなかった。私達の生活にはいつしか、張りがなくなり、力がなくなっていた。私は元来文学が好きで、法科をやりながらも文芸書ばかり読み耽った。卒業後もずっと、会社員になり済そうか、それとも文学で身を立てようかと、それを迷い続けてきた。生活の脅威と重圧とがなかったために、いっまでも決心がつかなかった。河野さんの口利きで、今の会社の社長秘書といった無為閑散な冗員になり、一方では英語の小説の飜訳などをしていた。然し両方とも私の本当の仕事ではなかった。本当の仕事は、ずっと遠い所に……雲をでも掴むような所にあった。そして、その本当の仕事がいつまでも掴めないし、張りのない安穏な生活にはまってしまうし、子供は殖えてくるし、自分はいつしか三十の年を越してゆくし、遙かの先まで平坦な道の続いている自分の一生が、妙に味気なく見渡されて、何か或る驚異を求める焦燥の心が萠し、それかって別に面白い冒険もなし得ずに、いつしか酒と煙草とに耽るようになった。外で飲まなければ家で必ず晩酌をやり、敷島を手から離すことがなかった。酒と煙草とは精神の一種の手淫である。その不自然な精神的淫蕩に沈湎してるうちに、私の脳力も体力も衰えてきて、その直接の現われとしては、前に述べたようなひどい性慾減退を来し、また内的には、全く意志の力を失ってしまった。もう今迄のあやふやな生活を擲って、何か一つ自分の一生の仕事というものを選ぼうと思ったり、また直接当面の事柄としては、酒と煙草とを止そうと思ったりしたが、本当の決心が私には出来なくて、いつもぐずぐずに終っていった。そして私の精神はだらけきり、私の生活はなまぬるい陰欝なものになり、而も私の魂はまだ諦めきれずに、いつも落着かない焦燥のうちに悶えていた。
前へ
次へ
全23ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング