、何だか恐ろしくて仕方がないから……というような話だった。それから詳しい事情を――農科大学生との失恋や嫂との喧嘩などが重って、札幌の家に居られなくなった訳だの、何処かの家で働きながら昼間は絵を習いたいという志望など――いろいろ聞かされてるうちに、つい私も妻も同情をそそられて、暫く家に留めておくことにしたのだった。実際彼女はその翌日になって、駅に預けっ放しにしてるという柳行李を一つ取って来たりした。それから私の家に半月ばかりいて、妻から河野さんに願って、子供の家庭教師みたいな風で置いて貰い、昼間は画塾に通っているのである。新宿に叔母がいるなどということを、彼女は今迄匂わせもしなかった。で私は何気なく、その点を軽くつっ込んでいった。すると彼女は平気で答えた。
「だってあの時はああ申さなければ、先生が置いて下さらないような気がしたんですもの。本当は少し前から新宿の叔母の家に来ていたんですの。所がその叔母が大変なやかましやで、私喧嘩をして飛び出して、それから先生の所へ伺いましたの。でも札幌の話はみんな本当ですわ。私よく喧嘩をする女だと、自分でも厭になっちまう時がありますの。」
 そして彼女は駄々っ児のように私の顔を覗き込んできた。それを私は、張り倒してやりたいような、また抱きしめてやりたいような、変梃な気持でじっと見返したまま、どうにもすることが出来なかった。
 栗飯を食べるために、私は静かな奥まった家へ何の気もなくはいっていったが、やがて自分の迂濶さに面喰った。私達を出迎えた女中は、銀杏返しに結って銘仙の着物をつけ、何を云うにも取澄した顔をしながら、身体全体で愛想を示す、可なり年増な女だった。通された室は奥の八畳の間で、衣桁から床の間の掛軸や水盤など、程よく整っていて、而も違棚の上には大きな鏡台が据えてあった。それになお、生憎今日はお風呂がございませんで……とわざわざ断られた。とんだことをしたと思ったが、もう取返しはつかなかった。女学生とも令嬢ともつかない光子の様子と自分の袴とに、変に気が引けながらも、いい加減に料理を註文しておいて、私はおずおず光子の方を窺った。彼女は何を考えてるのか、さも疲れたらしくぐったりと坐って、餉台にもたせた片手で頬を支え、室の隅にぼんやり眼をやっていた。私は弁解のつもりで云った。
「うっかりはいり込んだけれど……少し変な家でしたね。」
 彼女は私の方へちらと黒目を向けて、こんなことを云った。
「でも、これで温泉と谷川とがあったら、登別のような気がしそうですわ。」
 不思議なことには、彼女のその言葉に私は全然同感したのだった。登別と井ノ頭とは、どの点から云っても全く異った景色なのに、私の心にはそれが一緒になって映ったのである。今から考えると、その時の登別というのは一つの符牒に過ぎなくて、ただ漠然と自由な一人っきりの境涯というくらいな意味のものだったらしい。私はその日初めて聞かされたのであるが、彼女はあの時既に札幌の家に居にくくて登別に来てたのだそうだし、私はまた、漂泊の旅にでもいるような気で旅をしてたのである。
 私達は馬鹿馬鹿しくも、登別と井ノ頭とを比較して話し初めた。そのうちにいろんな物が運ばれた。女中は物を持って来たり用を聞いたりすると、すぐに室から出て行ったが、全体の調子や素振りで愛想よく待遇してくれた。一つ間《あいだ》を置いた向うの室で、男女の笑い声が聞えていた。私はいい気になって酒を飲んだ。光子も自ら進んで私の相手をした。それから何だかごたごたして、今私ははっきり記憶していないが、やがて食事を済まして林檎をかじりながら、私は縁側の戸を一枚そっと開けて、外を眺めてみたのである。庭の植込からその向うの木立へかけて、薄い靄が一面に流れていて、空高く星が光っており、西の空にどす赤い下弦の月が懸っていた。その不気味な月に暫く見入っているうち、俄にぞっと寒けを感じて、ふと振向いてみると、光子は半身を餉台にもたせかけ火鉢の上にのり出して、震えながら歯をくいしばっていた。私は雨戸をしめて戻ってきた。
「どうしたんです?」
 彼女はぎくりとしたように顔を挙げて、黒目が三分の一ばかり上眼瞼に隠れてる眼付を私の顔に見据えていたが、そのまま瞬きもしないで、はらりと涙をこぼした。私は残忍な気持になって、それに乗じていった。
「あなたはやはり心から松本君を愛してるんですね。」
「嘘、嘘、」と彼女は叫んだ、「誰も愛してなんかいません、誰も。」
「じゃあなぜそんなに……絶望してるんです?」
 彼女は病的な表情をした。そして暫く黙った後に言った。
「やっぱり私一人だけだわ。」
「何が?」
「いろんなことを考えたってやっぱり……私一人だけだわ。」
「だから考えない方がいいんです。」
「それでも私……。」
「欝憤を晴らすのなら、めち
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