ゃくちゃに歩き廻るのが一番いいですよ。」
「先生だって……。」
「だから池のまわりを七回まわったんです。」
「七回なんてまわりやしませんわ。」
「然し……一体どうしたらいいんです?」
そして私は不意に顔が赤くなった。やたらに煙草を吹かした。彼女も黙っていた。虫の声がいやに耳につくような静けさだった。長い間たってから、私は不意に彼女の手を握りながら小声で云った。
「泊る?……帰る?」
「泊るわ。」
そして私達は敵意を含んだ眼付で見合った。
茲で私は一寸断っておかなければならない、筆が余り滑りすぎたようだから。実は私は、いつの頃からか覚えないが、性慾の衰退に可なり悩まされていた。原因は毎日の晩酌と過度の喫煙とに在ると、医者も云うし自分でも思っていたが、それがどうしても止められなかった。なぜなら、生活全体が早熟してしまって、本当の決心というものが私には不可能だったから……がこのことはもっと先で云おう。兎に角私は性慾が著しく衰退して、そういう事柄にさっぱり興味がなくなってしまっていた。私はいつも何だか満ち足りないような焦燥のうちに暮していたと、前に一寸述べておいたが、それも一つはこれが原因だった。たまに玄人《くろうと》の女に接することがあっても、後の感銘は実に索漠たるものだった。殊に家庭に於てはそれが甚しかった。そのために私の家庭には、冷かな風が流れ込んできた。子供に乳房を含ましたり頬ずりをしたりしながら、私の方へじろりと投げる妻の眼付に、私は或る刺々《とげとげ》しいものを感じて、ぞっとするようなことがあった。どうして子供なんか出来たんだろうと、そんな風に溯ってまで考えることがあった。それかと云って私は、何も君子然たる心境に到達したわけではない。頭の中にはいろんな妄想が、以前と同じように去来するのだった。云わば性慾そのものが、肉体を離れて頭の中だけに巣くったようなものである。そして一時私は、頭の中だけでいろんな女性を探し求めて、精神的に彷徨し続けたこともあった。然しそういう空しい幻はやがて崩壊してしまって、私は非常に虚無的な気持へ陥っていった。それから漸く辿りついたのは、性慾の蔑視ということだった。単に性慾ばかりではなく、肉体に関する一切のものの蔑視だった。凡て肉体に関するものは、一時的で皮相で無価値なものだと思った。この思想は一夫一婦主義の家庭生活とよく調和した。私は若い女性と一緒に談笑しても平気だったし、時折不道徳な行いをしても、自ら良心に咎める所が少しもなく、それを妻に隠したのは、ただ妻から小言を喰わないためにばかりだった。妻と一つの生活――この一つの生活[#「一つの生活」に傍点]というのに力点を付して――一つの生活をしている、という意識さえしっかりしていれば、下らない肉体的な過失くらいは取るに足らない、そう思って私は、どんなことをしても危険を殆んど感じなかった。光子を平気で井ノ頭まで連れ出したのも、右のような持論を持ってるからだった。所が、光子からああいう話を聞き、次に自由奔放な彼女の魂を見、最後に家庭なんかの煩いを離れた伸々とした気持になって、私の心の中には別なものが頭をもたげてきた。それが更に、酒を飲んでるうちに光子の眼付から度々そそられた。そして、前にはただ「何だかごたごたして」とだけ書いたが、このごたごたのうちに私は意を決したのである。前日来のことで絶望して苛立ってる奔放な光子を見、その挑みかかるような眼付を見て――だが彼女がどういう心持だったかは私にはよく分らない、彼女自身にも恐らく分っていないだろう、実際その場の空気はごたごたしていたから……でもその間に、私は彼女を対象として自分をためしてみようと思ったのである。そしてそれは、性慾を蔑視する平素の持論にも矛盾しなかった。
そういう風にして凡ての調子が狂っていった。光子も私の気持を無意識的に感じて、更に絶望的に苛立っていったらしい。
呪わしい一夜だった。
私達は飯も食べずに、七時頃その家を飛び出した。朝靄が靉いて、地面はしっとりと露に濡れていた。木立には雀が鳴いていた。森を掠めてる清らかな朝日が、私には眩しかった。光子は足先を見つめながら歩いた。蒼い顔色をして、唇の端を軽く痙攣さし、時々病的な光が眼に現われてきた。池の縁に出た時、私は皮肉に微笑を浮べながら云った。
「これをも一度一周りしようか。」
「厭よ。」
「なぜ?」
「あなたのような……卑劣な人とは。」
私はむっとした。が突然、顔が真赤になるのを感じた。
「でも僕は……。」
「いや、いやよ。」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「いろいろうまいことを云っても、やっぱりあなたには、愛も何もないんだわ。」
「じゃあなぜ、昨日は、僕にあんな話をしたんだい? そして……。」
「そして……何なの?」
彼女は病的に
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