うに酒を飲むということと、最後のは全く馬鹿げてるが、松本の下宿で光子が朝遅くまでぐっすり寝入ったということだった。それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。
 光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。
「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」
「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。
「じゃ河野さんは?」
「考えるのも厭ですわ。」
「それではどうしようって云うんです?」
「分りませんわ。」
「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」
 此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。私の言葉には返辞もしないで、自棄《やけ》気味に日傘を引きずりながら、真直ぐを見つめて歩き続けた。私も黙って後からついていったが、次第に心の落着き場所を失ってきた。彼女の真剣な話を変な風にはぐらかしてしまったのはよいとして、その納りをつけるのに困った。しっくりと彼女の腑に落ちる事を云ってやりたかったが、その言葉が見付からなかった。そして知らず識らず足をゆるめていると、彼女はふいと向き直って、だいぶ後れてる私の方へ焦れったそうに呼びかけた。
「先生、もっと早く歩きましょうよ。私この池のまわりを何度も廻ってみたいんですの、幾度廻れるか。」
「そんなことをしてどうするんです。」と私は云ったが、彼女のぼーっと上気してるらしい顔と、眸の据った輝いてる眼とを見ると、すぐそれにつり込まれてしまった。
「私もう何にも考えないわ、馬鹿馬鹿しい!」と彼女は投げやりの調子で云った。「この池のまわりを七度廻って、それでおしまい。」そして彼女はとってつけたように笑った。
 西に傾いた日脚が赤々と杉の梢に流れていて、池の水は冴々と澄みきっていた。藻の影にじっと浮んで動かない鮒の群がいたり、水の面に黄色い花が一つぽつりと咲き残っていたりした。そして杉の林と古い池とから醸される幽寥な気が、それらのものに塵外の静けさを与えていた。でも私は淋しくなかった。あたりの景色が静かであればあるほど、遠い旅にでも出た気になって、解き放された自由な喜びを感ずるのだった。殊に光子は溌刺としていて、明るい日向に出ても薄暗い森影にはいっても、同じような眼の輝きを失わなかった。
「私何だかさっぱりして、気が清々《せいせい》して、もうどうなったって……この池にはまって死んじゃったって、構いませんわ。」
 そんなことを云いながらぐんぐん歩いて行った。先刻の訳の分らない腹立ちがけし飛んで、その昂奮だけが残ってるような調子だった。小鳥が鳴いてる、花が咲いている、鮒が浮いてる、杉の芽が綺麗だ、ほんとにいい天気だ、などとそんなことを短い言葉で独語のように云いながら、それでも心の底には、何かしらじっとしていられないものが渦巻いてるといった風に、出来るならば宙を飛んだり地面に転がったりしたいような素振だった。で私は彼女を見てるうちに、勝手気儘に飛び廻り囀り散らす小鳥を連想した。実際立木の中にはいろんな小鳥の声が響いていた。それからまた私の頭には、北海道の広漠たる平野やアカシアの都会や山の湯のことなどが浮んできた。そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。
 そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。
「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」
 私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが
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