ので、どんなことをしても大丈夫だと思い、何の危険もないものと思っていた。この僕の心持だけは、どうか誤解しないで信じてくれ。ただ僕は、そういう信念の下に余り油断してたのがいけないのだ。」
 この言葉は嘘ではない。全く私はそういう信念を持っていた。所が、そんな信念なんかを吹き飛ばしてしまうほどの、もっと深い所に潜んでるいけないものが――油断なんかという言葉で蔽いつくせないものが、私の生活の中にあったのだ。がそのことはもっと先で云おう。
 吉祥寺で電車から降りて、井ノ頭公園の方へ歩き出した時、私は光子の様子の変ったのに驚いた。東京駅で電車に乗るまで彼女は、私に対してあれほど和やかな心持を示して、何か遠い夢の跡をでも追ってるようなぼんやりさで、私に信頼し私に凡てを打任せていたのであるが、今私と並んで田舎道を歩いている彼女には、すぐ眼の前に浮んでる何かを一心に見つめて、じっと凝り固ってるような様子が、顔付や足取りに現われていた。それが一種の反感に似た冷さで、私の方へ対抗的に迫ってきた。彼女に何か悪いことでもしたのではないかしらと、私は妙にぎごちなくなりながら、わざと冗談の調子で尋ねてみた。
「どうしたんです、変に真面目くさった顔をして……。」
 彼女はちらと私の方へ黒目を挙げてから、なお四五歩進んだ後で云った。
「私いろいろ考えてみましたけれど……。」
 いくら待っても後の言葉がないので、私は静かに促した。
「で……どういうんです?」
「どうしたらいいか分らないんですもの。」
「一体何のことですか。話してしまったらいいじゃありませんか。私の顔を見てどうでもよくなったなんて……。」
「でもあの時は一寸そんな気がしましたけれど……やっぱり……。」
「話してしまった方がいいでしょう。私の顔に何か書いてあるわけでもないでしょうから。」
 私は冗談にしてしまおうとしたけれど、今の彼女には手答えもなかった。日傘の先で地面をつっついて歩きながら、恐ろしく真剣に考え耽ってる様子だった。私は何となく不吉な予感を覚えた。実は彼女にその話をさせるために連出したのだったが、そして会話の調子でなおそれを求めてはいたが、公園にはいりかける頃から、もう聞かない方がよいかも知れないという気持が起ってきた。然しやがて、彼女の方から話し出してしまったのである。
 日曜日でないせいか、公園の中には余り人はいなかった。杉の木立のほろろ寒い下蔭にはいって暫く行った時、光子は一寸足を止めてあたりを見廻したが、今度はゆっくりと歩き出しながら云った。
「私やっぱり先生に、何もかもお話してしまいますわ。」
「ええ。」と私は簡単に素気なく答えた。
 私達は足の向くままに――と云っても池の縁の道を――長く歩き続けた。光子の話は調子が早くなったり遅くなったり、事柄が前後したり、私に聞き返されて云い直したりして、余りまとまりのよいものではなかったが、大体の筋道はよく通っていたし、彼女にとっては可なり真剣なものだった。
「私何よりも先に、先生にお詫びしなければならないことがございますの。先生お許し下さいますわね。初めのうちに申上げておけばよかったのですけれど、何だか云い悪くて……。あの……先生の所へよく遊びにいらっしゃる松本さん、あの人と私変な風になってしまったんですの。河野さんの所へ参ってからは、始終お手紙を下さいますし、私も時々手紙を上げていましたが……。でも、今じゃもう何でもありませんわ。あんな意気地のない人のことなんか、どうだって構わない、私心の外におっぽり出してしまいますわ。そりゃ変なことを仰言るんですもの。あなたはこれまで幾人の男に関係したかなんて、まるで人を芸者か女郎とでも思っていらっしゃるような調子なんでしょう。私口惜しいから突っかかっていってやると、悪かったら謝罪するとこうなんですもの。そして、たといあなたの過去はどういうことがあろうと、そんなことを私は咎めはしない、現在のあなたが私一人を想っていて下さればそれでいいんです、けれど、お互に過去のことをすっかり打明け合って、さっぱりした気持で愛し合わなければいけない……とそんなことを繰り返し仰言るんです。変な理屈ですわ。過去のことを打明け合うのはいいけれど、それをくどくど話すというのは、やっぱり過去のことをいつまでも忘れない証拠じゃないんでしょうか。私はもう昔のことなんか綺麗に忘れてしまっていますわ。先生にだけお話しますけれど、私札幌で一人恋し合った人がありましたの。でも今ではもう、松本さんの仰言るように、それも言葉だけでなしに本当に、過去は過去として葬ってしまってるつもりですわ。それを根掘り葉掘り尋ねておいて、おまけに昨夜《ゆうべ》は私をあんな室に置きざりにして……。先生、何もかもありのままお話しますわ。ねえ、聞いて下さいまして
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