み込んだ。光子は軽快な足取りで私と並んで歩きながら、変に黙り込んでしまった。それも何かを思い耽ってるという風ではなく、顔付も眼付も暢《のび》やかになって、何だかこう夢をでもみてるかのようだった。昼飯を食べようかと云っても、欲しくないとだけ答えた。一体どうしたというんだろう? 私にはさっぱり訳が分らなくなった。思い切って真正面から、話というのはどんなことですかと、少しきつい調子で尋ねてみた。
「もういいんですわ。先生にお目にかかったら、どうでもいいような気がしてきたんですもの。」
「それで?」
「それでって……。」
そして彼女は一寸地面を見つめたが、何を思い出したのかくすくすと一人笑いをした。たったそれだけのことだが、それが私の心を軽く憤らした。この軽い憤りほど始末の悪いものはない。殊に相手が、反感も憎悪もない快い異性の時にそうである。私は甘っぽく嵩《かさ》にかかってゆく気持になって、急な大事な話というのを聞かないで、このまま光子を放すものかと決心した。そして、どうしたら彼女が話し出すだろうかと思い惑ってる所へ、高い角張った建物や電車自動車の響きや忙しげな通行人など、眩しい錯雑した都会と、私が朧ろげながら推察してる彼女の話の内容――恐らくは恋愛問題――とが、相容れない世界となって心に映ってきたので、こんな風ではとても駄目だと思って、知らず識らず歩みを止めた。もういつのまにか堀端に来ていた。葉の散った柳の細い枝影を、派手な大柄な絣の米琉の着物に粗《まば》らに受けて、一二歩先で足を止めて私の方を振向いた彼女の姿が、堀の水と空とを背景にくっきりと浮出して見えた。
「いい天気だから、郊外でも少し歩いてみましょうか。」と私は、その瞬間の咄嗟の思いつきに自ら微笑みながら云った。
「ええ、先生さえお差支えございませんでしたら。」と彼女は平気で答えた。そして日傘の先で、ぐいぐいと地面をつっついた。――水浅黄に黒で刺繍のしてある日傘を、彼女はその日一度もささないでステッキのように持ち歩いたのを、私は今はっきりと思い出す。
私達は東京駅へ折れ込んで、それから電車に乗った。初め私はただ漠然と郊外でも歩くつもりで、中野までの切符を買ったが、乗り込んだ電車が吉祥寺まで行くものだったから、一層のこと井ノ頭へ行ってみようと思った。
「東京にも、北海道ほどじゃないが、静かな落着いた公園があるから、案内してあげましょうか。」と私は小声で云った。
「ええ。」と彼女はまたどうでも構わないという調子で答えた。
電車の中に彼女と並んで腰掛けて、ステッキの頭に両手をのせ、ぼんやり車外の景色に眼をやってるうちに、私は一寸そうした自分の姿に苦笑したが、別に他意あって光子を連れ出すわけではなく、心さえしっかりしていて過を犯さなければ、彼女と半日の秋の光を浴びるくらい何でもないことだと、至極呑気な気持に落着いていった。たとい友人に出逢って何とか揶揄されても、私は顔に一筋の赤味も浮べないで、反対に相手を揶揄することが出来たかも知れない。後で妻とひどく喧嘩をして、私は北海道の時から光子と関係がついてるのに、それをのめのめと家に引張り込み、光子が河野さんの家に行ってからも、時々媾曳してたに違いないと、とんでもない邪推を受けた時、私は落着いて次のように云ったのである。
「馬鹿なことを云っちゃいけない。いくら僕が呑気で図々しくても、もし光子と北海道で変なことがあったのなら、何で家の中にお前の側に引張り込むものか。僕はまだそれほど精神的に堕落はしていないつもりだ。勿論結果から見れば、僕はお前に何と云われたって仕方ないけれど、初めから破廉恥な計画なんかは少しもなかったのだ。僕は光子を井ノ頭に連れて行く時、別に何という気持も持ってやしなかった。ただ彼女からその大事なという話を聞こうと思っただけだ。光子が女だったのがいけないのだ。僕が誰か或る男と井ノ頭に散歩に行っても、お前は気を揉みもしなければ、何とも思いはしないだろう。女だって同じさ。僕はこう思ってる、夫婦というものは一つの生活をしてるのであって、その一つの生活ということのために、恋人同志やなんかよりも、もっと深く堅く結び合されてるのだと。もし僕が独身だったら、若い女やなんかと一緒に歩いたりする時、僕は屹度妙な気分に心をそそられるに違いない。然しお前と夫婦の生活をしてるので、一つの生活をしてるので、若い女の前に出ても僕は平気でいられるのだ。そういう所に、夫婦生活の強みと自由とがあるわけだ。妻を持ってる身の上だから若い女と一緒に歩くのは悪いというのは、本当の夫婦生活を知らない者の言葉だ。夫婦生活とはそんな堅苦しい窮屈なものではない。僕は光子と井ノ頭に行った時、少しも心にやましさを感じはしなかった。僕はお前と一緒の生活にしっかり腹を据えている
前へ
次へ
全23ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング