? 私本当に困ってるんですの。私奥様のお世話で、河野さんの所へ参りまして、昼間は学校に通わして貰えますし、夜分は家庭教師の真似事みたいなことをして、ほんとに願ってもない仕合せな境遇だと、初めのうちはどんなに喜んだか知れませんわ。けれど、先生は御存じかどうか知りませんが、河野さんてそりゃあひどい人なんですの。松本さんも私の話を聞いて、それは立派な色魔だと仰言っていらしたわ。私はそれほどには思いませんけれど……或はお酒のせいかも知れないと思っていますけれど、松本さんに云わせると、酒は男の計略ですって。そうでしょうかしら? 夜晩く帰っていらして、夜の一時二時頃まで召上ることなんか、珍らしくもありません。奥様は御病気で片瀬に行っていらっしゃいますし、女中さんは二人共まるで山出しの田舎者なんですもの、お酒の相手……いえ私お酒なんかあすこで一杯も頂きませんけれど、お側についていてお燗をしたりなんかするのは、いつも私の役目ですの。だって外に誰もいないんですから、仕方ありませんわ。そして酔っ払った揚句には、私の手を握りしめたり、便所《はばかり》に立つふりをして、私の首にかじりつこうとなすったり、この頃では昼間お酒の気がない時でさえ、妙な眼付をして私のお臀を叩いたりなさるんです。それも冗談ならいいんですけれど、時々変なことを仰言るんですの。俺は草野の細君みたいな女が大好きだ、昔から好きだった、が人の細君では仕方がない、お前ならその向うを張れるから、一つ俺と一緒にならないか、あんな病身なくよくよした妻なんか、今すぐにでも追ん出してみせる……なんてもっとひどいことだって仰言るんです。草野の細君という言葉を私は二三度聞きましたが、ひょっとすると、あなたの奥様に変な気を持っていらっしゃるのかも知れませんわ。そんなひどい心の人ですもの、私なんかを手に入れるのは訳はないと、どうもそういった調子なんですの。お前もいい加減意地っ張りだねと、私の耳を火の出るほどひどく引張ったりなさるんです。なぜうんと怒ってやらなかったかって、松本さんはひどく憤慨していらしたけれど……いえそれは昨晩のことなんですの。いくら何だって、私そんなことを松本さんに話せはしなかったんですもの。でも昨日はとうとう逃げ出してしまいましたわ。それまでに幾度逃げ出そうとしたか分りません。松本さんは私が前に手紙でそんなことを少しも匂わせなかったと云って、少し疑っていらっしゃるようですけれど……そのためかも知れませんわ、私に過去のことをいろいろお聞きなすった。のは。男には女の心なんか分らないでしょうかしら。私がそれまで隠してたのは、事を荒立てたり松本さんに心配さしたりしたくないというだけで、外に訳は何もないんですの。でもやっぱり駄目でしたわ。一昨日《おととい》の晩は愈々困ってしまいました。夜の二時頃までお酒を召上っていらしたが、餉台の上の小皿を一枚ふいに取上げて、いきなり側の鉄の火鉢に投げつけて、粉微塵に壊しておしまいなすったんです。何でも、差された杯の酒を私が飲まないとか何とか、そんな風なことだったんです。でも私にはその乱暴が、全く不意だったものですから、すっかりまごついたせいか、自分でもよく分りませんが、急に変な気持になって、その杯の酒をぐっと飲んでしまいましたの。後ではっとしましたが、もう追っつきません。河野さんは恐い眼付で私の方をじろりと見て、うむ、お前が皿一枚に一杯ずつ飲むなら、夜明けまでに何枚でも壊してやると、こうなんでしょう。そうなると私も意地っ張りで、もう一言も口を利かないで、室の隅にじっと坐っていました。それからまた皿を一二枚お壊しなすって、暫くすると、畳の上にごろりと寝転んでいらしたが、私が気がついてみると、少し鼾をかいて眠っていらっしゃるんでしょう。私ほんとにどうしたらいいかと思いましたわ。しまいには腹を据えて、夜着を上からそっとかけてあげて、私は一番遠い隅っこへ火鉢を持っていって、それによりかかりながら朝まで坐り通しに坐っていました。その間の恐ろしいようななさけないような気持ったら、今考えてもぞっとしますわ。そして朝になってから私は、女中達の手前今起きたような風をして、顔を洗ったり庭に出てみたりしました。河野さんは平気でしゃあしゃあとしていらして、女中に小言を云いながら室を片付けさして、それから私に向っては、人の居ない所で、昨晩夜着をかけてくれた親切は忘れないって……。それを聞くと、私は頭から水でも浴びたように、ぞーっと身体が竦んでしまいました。どうしてそんなに恐ろしかったのか、自分でもいくら考えても分りませんが、ほんとに恐ろしくてじっとしていられなかったんですの。そしてその日の午後に、私は身体一つで松本さんの下宿へ飛んでいきました。松本さんは私がやって行くと、ただ遊びに来たも
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