ってきた。思うまいとしてもまたいつしかその方へ考えが向いていった。そして自身のことと彼女のこととが、頭の中に渦を巻いた。私は幾度も時計を眺めた。十一時近くまで彼女は帰って来なかった。
 表に俥が止った時、私は物に慴えたように立竦んだ。それから机の前に坐って、書物を一冊披いて読み耽ってる風を装った。俥屋の声や、女中の声や、戸締りをする音や、茶の間で何かかたかたやる音などが、相次いで聞えてきたが、やがてしいんと静まり返った。私は苛ら苛らしてきた。そして十分ばかりたつと、梯子段を鈍い足音が上ってきた。
 俊子は半ゴートだけをぬいだ外出着のままで、静かに室へはいって来て、火鉢の向うに坐ってから、改まった調子で云った。
「只今。河野さんの家へ行って参りました。」
 その全体の様子から私はただならぬものを感じて、一寸口が利けないでいると、彼女は急にはらはらと涙をこぼして、それからまた立上って出て行こうとした。
「俊子!」と私は呼び止めた。
 振向いた彼女の顔は、ぞーっとするほど冷たく凝り固まっていた。
「どうしたんだい?」と私は強いて尋ねた。
 彼女は一寸考えてから、また火鉢の向うに戻ってきて坐った。そして燃えるような眼付を私に見据えながら、震える声で云い出した。
「どうしたのか、御自分の胸にお聞きなすったら、分る筈です。あんな事をしておいて、よくも私を……。私、のめのめとあの女の前に出ていったかと思うと、口惜しくて、口惜しくて!……。」後の言葉は息と共に喉元につめて、こまかく肩を打震わした。
 私はどしりと打ちのめされた気がした。万一の場合を予想する気持になってはいたが、その万一は、そんなことではなくて、もっと遠い他の漠然とした所にあった。何れ俊子に分るかも知れないとは思っていたが、河野さんの家で彼女がそれを聞き出そうとは、夢にも思ってはいなかった。私は彼女について他のことを懸念していたのである。所が……。私は我を忘れて飛び立とうとした。
「え、誰から、誰から聞いたんだ?」
 すると彼女は、俄に嘲笑的な調子に変った。
「誰から聞こうと私の勝手ですわ。あなたは、分るまではごまかしておくつもりだったんでしょう。立派なお考えですわ。そして松本さんに向って、場合によっては媒妁人になってあげてもいいなんて、よくも図々しい口が利けたものですね。昨日からどうも様子が変だとは思ったけれど、ま
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