って私は書斎の山を片付けるつもりだった。
この万一の場合を予想する気持は、これまでにも時々、ふっと日が影るような風に、何等はっきりした理由もなく起ってくることがあった。それは生活気分がたるんで心身がだらけてる結果だったろうが、その日のは変な重苦しい重圧となって、私の上にのしかかってきた。光子との会見があんな風に終って、愈々もう駄目だという絶望が濃くなるにつれて、私は一刻もじっとしてはいられなかった。多分河野さんの家へ行ってもう帰ってる筈の俊子と顔を合せることも、ひどく不安であったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
所が家へ帰ってみると、俊子は不在だった。女中に聞けば、俊子は午後中じっと家にいて、それから晩になると慌だしく支度をして、俥に乗って出かけたそうである。後で分ったことだが、彼女は河野さんの家へ行くのが何だか嫌で、ぐずぐずしているうちに夕方になって、いつも三時頃には社から帰る私が帰って来ないし、不安な思いが募ってきて、どうにでもなれという気で出かけたのだった。
「虫が知らしたんです。」と彼女は云った。「私はどうしても行きたくなかった。そしてぐずぐずしているうちに、あなたは先廻りをして、あの女と落合っていらしたんでしょう。図々しいにも程があるわ。あなたはそれでも恥しくないんですか。」
「いや僕は会社に行って遅くまで用をしていたんだ。」と私は臆面もなく云った。「嘘だと思うなら、会社に電話で聞いてみるがいい。」
「いいえ、嘘です、嘘です。」
そして彼女はどうしても聞き入れなかった……がそれは後のことである。
私は俊子がいないのにほっと安心すると共に、また一方には不安にもなりながら、二階に上って、飜訳の原稿や五六通の書信を片付けたり、書棚の中の書物を並べ直したり、机の抽出の中のこまごました物を見調べたり、額縁の曲ってるのを掛直したり――何のためにそんな下らないことをしたのだろう!――そして合間合間には腕を組んで室の中を歩いたりしてるうちに、今迄甞て知らない種類の焦慮に襲われてきた。「晩に河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ、」という光子の言葉から糸を引いて、俊子がいつも河野さんに金を借りにいったこと、彼女が結婚前から――子供の時から――河野さんと往来していたこと、河野さんの性情や私達の冷かな夫婦生活、そんなことが一時に忌わしい影を拵えて、私の頭に映
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