うに酒を飲むということと、最後のは全く馬鹿げてるが、松本の下宿で光子が朝遅くまでぐっすり寝入ったということだった。それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。
光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。
「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」
「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。
「じゃ河野さんは?」
「考えるのも厭ですわ。」
「それではどうしようって云うんです?」
「分りませんわ。」
「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」
此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。私の言葉には返辞もしないで、自棄《やけ》気味に日傘を引きずりながら、真直ぐを見つめて歩き続けた。私も黙って後からついていったが、次第に心の落着き場所を失ってきた。彼女の真剣な話を変な風にはぐらかしてしまったのはよいとして、その納りをつけるのに困った。しっくりと彼女の腑に落ちる事を云ってやりたかったが、その言葉が見付からなかった。そして知らず識らず足をゆるめていると、彼女はふいと向き直って、だいぶ後れてる私の方へ焦れったそうに呼びかけた。
「先生、もっと早く歩きましょうよ。私この池のまわりを何度も廻ってみたいんですの、幾度廻れるか。」
「そんなことをしてどうするんです。」と私は云ったが、彼女のぼーっと上気してるらしい顔と、眸の据った輝いてる眼とを見ると、すぐそれにつり込まれてしまった。
「私もう何にも考えないわ、馬鹿馬鹿しい!」と彼女は投げやりの調子で云った。「この池のまわりを七度廻って、それでおしまい。」そして彼女はとってつけたように笑った。
西に傾いた日脚が赤々と杉の梢に
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