流れていて、池の水は冴々と澄みきっていた。藻の影にじっと浮んで動かない鮒の群がいたり、水の面に黄色い花が一つぽつりと咲き残っていたりした。そして杉の林と古い池とから醸される幽寥な気が、それらのものに塵外の静けさを与えていた。でも私は淋しくなかった。あたりの景色が静かであればあるほど、遠い旅にでも出た気になって、解き放された自由な喜びを感ずるのだった。殊に光子は溌刺としていて、明るい日向に出ても薄暗い森影にはいっても、同じような眼の輝きを失わなかった。
「私何だかさっぱりして、気が清々《せいせい》して、もうどうなったって……この池にはまって死んじゃったって、構いませんわ。」
 そんなことを云いながらぐんぐん歩いて行った。先刻の訳の分らない腹立ちがけし飛んで、その昂奮だけが残ってるような調子だった。小鳥が鳴いてる、花が咲いている、鮒が浮いてる、杉の芽が綺麗だ、ほんとにいい天気だ、などとそんなことを短い言葉で独語のように云いながら、それでも心の底には、何かしらじっとしていられないものが渦巻いてるといった風に、出来るならば宙を飛んだり地面に転がったりしたいような素振だった。で私は彼女を見てるうちに、勝手気儘に飛び廻り囀り散らす小鳥を連想した。実際立木の中にはいろんな小鳥の声が響いていた。それからまた私の頭には、北海道の広漠たる平野やアカシアの都会や山の湯のことなどが浮んできた。そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。
 そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。
「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」
 私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが
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