んで、首をひねって考え込んでいて、あれで何が面白いのかな。亡国の民という感じだね。もしくは、世紀末の遊民……というにも余りに気が利かなさすぎる。全く亡国の遊民だね。日本にもあんな連中がいると思うと、不思議な気がするよ。」
それが、冗談ではなくて、至極真面目に云ってるのだった。
「だって君も、以前は……。」
「毎日のように通ったさ、だが、面白くないからぴったり止しちゃったじゃないか。」
そして彼は腹立たしそうに口を噤んだ。
そういうことは、まだ罪のない方だったが……。
或る時彼は、画集を集めることに心を向けだした。古本屋をあさり歩いては、面白い画集を買い求めた。然し、乏しい彼の財布では、それは容易なことではなかった。極端に小遣を倹約しても、月に三四冊買えるのが漸くのことだった。そして、金がないところへ面白い画集が見付かると、着物を質屋へ持ってゆくことさえあった。
そのうちに、やがて彼はまた画集にも興味を失ってしまった。興味がなくなるとさっぱりしたもので、懐中の淋しい折なんか、折角手に入れた画集を持ち出して、古本屋へ売り払うのだった。
「ひどい奴等だ、買った時の半分値にしか引取ろうとしない。」
そう云って憤慨しながらも、彼はその半分値で払い渡していた。
例を挙ぐれば、まだいくらでもあるが、兎に角長谷部はそういう風に、転々と興味を移していった。そして一度一つのものに興味を持ち出すと、暫くの間はそれにすっかり溺れてしまうのだった。何故にそうなるのかは、誰にも分らなかった。その上自分の職務には決して興味を持ったことがなく、会社員としてもまたは学校教師としても、一番の不忠実な懶け者であったし、それかって、何か他にまとまった勉強をするのでもなかったし、云わば、精神的にも物質的にも真面目な生活から離れた、第二義的な娯楽にばかり耽って、時間を空費してるに過ぎなかった。
「あれで、女道楽でも初めたら困るね。」と友人達は云い合った。
が幸にも、長谷部はその方へは踏み出さなかった。独身者としては品行は上等の方だった。
彼は人の肉体について、妙な見方をすることがあった。
或る晩、彼は一人の友人と往来で出逢った。友人は手拭と石鹸箱とをぶら下げて、銭湯へ行くところだった。
「一寸球を撞こうじゃないか。お湯はその後にし給いよ。」
彼はその頃撞球に耽っていた。で友人は、つかまったら大変だと思って、逃げようとしたが、彼は離さなかった。
撞球場は案外すいていた。二人はゲームを初めた。友人は一時間ばかりで止すつもりだったが、他に待ってる相手がなかったせいか、彼はいつまでも許さなかった。友人が嫌がれば嫌がるほど、益々執拗に強いるのだった。しまいには友人も腹を据えて、十一時過ぎまで相手になった。
それから二人して、撞球場を出てぶらりぶらり歩いてると、とある湯屋の前に出た。まだ湯屋は起きていた。
「君は湯にはいるんだったろう。こんどは僕の方で附合ってやるよ。」と不意に彼は云い出した。
「だってもう遅いよ。湯が汚くて駄目だ。」
「なに構うものか。」
そして彼は先に立って湯屋へはいり込み、手拭をかりて湯にはいった。
湯気が濛々とこめてる中に、裸体の人が一杯こんでいた。硝子張りの天井から、冷い雫《しずく》が落ちていた。湯はぬるみ加減で、上り湯は底少くなっていた。
彼は長い間湯壺の中につかっていたが、どこも洗わないうちに、友人を急《せ》き立てて出てしまった。
その帰りに、彼は友人にこんなことを云った。
「僕は暫くぶりで銭湯にはいってみたんだが……貧乏でも僕のうちには湯殿があるものだからね……、」そして彼は苦笑を洩した。「銭湯って変なところだね。ああ大勢客が込んでると、何というか……一種の群集心理みたいなものが働くと見えて、湯壺の中に一人か二人しか残らないで、みんな流し場に出てしまう時と、一度に湯壺へ飛び込んでくる時とがある。不思議だねえ。そして、大勢湯壺にはいり込んでくると、僕はそれを測ったんだが、湯の高さが、大丈夫一尺五寸は違ってくる。君、あの大きな湯壺の湯が、一尺五寸も高まるほど、人の身体がぶちこまれるんだぜ。女湯の方もそうだろう。両方で、男と女とが芋の子のように湯壺の中にこみ合って、ごった返してる。まるでめちゃだね。」
「え、めちゃだって……何が。」
「何がと云ったって……めちゃじゃないか。」
長谷部が果して何をめちゃだと感じたのか、友人には分らなかったが、その話を聞いた私にも、勿論分りはしなかった。
ところが、それと関係があるようなまたないような、変な告白を、私は長谷部からじかに聞かされたことがある。
その時私達は酒を飲んで、可なり酔っていた。私は彼の性情を心配して、いろいろ忠告めいたことを饒舌っていた。彼はおとなしく耳を貸していたが、ふいに云い出した。
「君の云う通りだ。僕は自分でも自分を制しきれなくなる時がある。君だから打明けるが、僕はとんだ破廉恥なことをやりかけたことさえある。……或る晩遅く、薄暗い横町を一人で通っていた。すると、どこかの女中らしい若い女と、ぱったり出逢ったのだ。断っておくが、君も知ってる通り僕はさほど性慾的な方じゃない。時々いかがわしい方面へ出かけていって、まあ生理的の必要だけは満たすこともあるが、決して深入りはしない。さっぱり面白くないんだ。球や碁やテニスには夢中になることもあるが、女には決して溺れない。それが、僕のひそかな矜りだった。ところが、その晩、どんより曇ったむし暑い晩だったが、夜目にまるまると肥ったその肉体と、ぱったり出逢った時、僕はどうしたはずみでか、ふいに、今晩は……と声をかけてしまった。馬鹿げた挨拶さ。だが、酔ってたんじゃないよ。全くの白面《しらふ》なんだ。そして声をかけながら、咄嗟にその女の手を握ってしまった。はっと思った時には、女は何やらがーんと響く声を立てながら、僕に武者振りついて来ようとしている。僕はもう……心が顛倒したというか、女を突き飛しておいて、一散に逃げ出してしまった。変に胸糞の悪くなるような髪油の匂いが、気のせいか、いつまでも鼻についていた。そして何とも云えない情けない惨めな気持になって、明るい大通りを犬のようにうろつき廻ったものだ。その時のことを考えてみると、僕は危険だ、実際危険なんだ。」
陰欝な彼の眼付を、私は暫くぼんやり眺めていた。
「君なんかには、そういう経験はあるまいね。いや恐らく誰にもないことなんだろうが……。」
「そりゃあ、そういう一寸した気持を起すことは、男には誰だってあるかも知れないが、気持の上のことと実行とは……。」
「距離があるというんだろう。ところが僕には、その距離が非常に少いような気がして……全く君が云う通り、反省と自制とが足りないのかも知れない。然し、それが自然だとしたら、どうすればいいんだ。……どうしたらいいんだ。」
荒い髪の毛をもじゃもじゃに乱した、骨立った額の下から、彼は陰欝な眼付で私を覗き込んで来た。私は何かしら冷りとしたものを受けた。
その冷りとした感じは、私の下らない道徳心の故だったかも知れない。なぜなら、長谷部は実に素敵なことをやってのけてしまったのである。だが、一歩退いて考えてみると、もし事情が一寸異っていたら、或は重大な犯罪をも最も自然に行ったかも知れない、と思わせるようなものが彼のうちにあった。
「もしそれを受取らなければ、殺されるかも知れないと……そんな気がしましたので……。」
長谷部からなぜ指輪を受取ったかと聞かれた時、彼女はそう答えたそうだった。
彼女というのは、彼が英語の教師をしてるその小さな私立大学の、教員室の給仕だった。
一口に云えば、事件は簡単だった。彼が勤めてる私立大学の教員室に、二人の女給仕がいた。一人は髪の毛の縮れた顔のいかつい二十二三歳の女で、一人はまだ十六七の小娘だった、が髪の濃い目鼻立の整った、一寸小綺麗なそして無邪気な様子だった。その若い女給仕へ、彼は或る時青い宝石入りの金指輪を買ってきて、無理に受取らせてしまったのである。普通なら何でもないことなんだが、学校内の出来事なだけに、重大な問題となった。
その日の午後四時半頃、他の室で事務を執っていた学生監が、ふと教員室にはいっていった。みると、室の隅で、若い方の女給仕がしくしく泣いていて、それを年上の女給仕が慰めていた。外に誰もいなかった。学生監は不思議に思って、いろいろ訳を尋ねてみたが、聞き出すことが出来なかった。そのうちに、彼女達は帰っていった。そして十五分ばかりすると、年上の方のが戻ってきて、学生監に訳を話した。それによると、若い方のが一人きりでいる時、長谷部がはいって来て金の指輪をいきなり差出したそうだった。彼女は断った。然し彼は恐ろしい勢で睥みつけて、その上拒めば打ち殺しもしかねないような様子で、無理に受取らしてしまった。そうして彼が出て行ってしまった後で、彼女は何だか急に恐ろしくなってぼんやりつっ立ってるところに、年上の同輩が室に戻ってきて、手に持ってる金指輪を見付けた。不審がられて尋ねられると、彼女は不意に泣出してしまったのだそうだった。
その話を聞いて[#「 その話を聞いて」は底本では「その話を聞いて」]、学生監は処置に困った。とりあえず彼女に口止をしておいて、それから教務主任の室へ行って、二人で相談してみたが、長谷部を辞職させるという以外に、名案も浮ばなかった。
一方でそういうことになってるとは知らないで、長谷部は翌日学校へ出ていって、学生監と教務主任とから別室に呼ばれた。その時彼は平然として答えたのだった。
「別に悪意あってしたわけではありません。彼女の不思議な能力に対する感謝のしるしです。私がいくら練習しても、心を練っても、到底会得出来ない能力を彼女が持ってるからです。」
その能力というのは、透視……というほどではないが、一種の精神感応力だった。盆の上に茶碗を幾つも伏せておいて、どれかの中に貨幣を入れておくと、彼女は上からじっと眺めながら、それをよく云い当てた。教師連中は面白がって、当ったら中の貨幣をやることにして、度々彼女に試みさした。外れることも時にはあったが、大抵は美事に当った。
それを最も不思議がって、彼女に最もしつっこく試みさしたのは、長谷部だった。しまいには、ありったけの五十銭銀貨を持ち出したり、また自分で試みてみたりした。彼女も遂には嫌がって、なかなか求めに応じなくなった。然し長谷部は一人で熱中していった。透視や千里眼なんかに関する書物は勿論のこと、心霊研究の方面の書物までも買ってきて、夜遅くまで読み耽った。
そういう彼の熱心さを、教務主任と学生監とは信じなかったし、また彼の方でも誇示しようとしなかった。ただ彼がいつも一心になって、女給仕の透視に立会ったり、始終彼女に透視を強いたりしてるのは、そして時には、そのために授業時間まで忘れかけることがあるのは、皆に知られてる事実ではあったが、それは指輪の一件を弁義することにはならなかった。その上、彼女は相当の顔立だったし、彼は独身者だった。而も事が起ったのは、神聖なるべき教員室でだった。
「こんなことになっては、どう始末したらよいものか、私共も困ってしまうんです。」
教務主任はそんな風に、曖昧な口の利き方をした。
長谷部はしまいに黙り込んで、二人の前に頭を垂れていたが、やがてふいに云った。
「四五日、進退を考えてみます。」
そして彼は四五日欠勤すると云い置いて、学校の門を出た。若い女給仕はその日学校へ出て来なかった。
それから長谷部はどう考えたのか、私のところへやって来て、事の次第を話した上で、その女に結婚を申込んでくれと、私に頼むのだった。
「結婚するって、どうしてだい。」
私は彼の意外な決意に喫驚した。が彼の方が、私の驚きを不思議がってるようだった。
「どうしてって……ただ、結婚してみたいんだ。」
「馬鹿な、そんことで結婚する奴があるものか。結婚してみたいからって、そんなむちゃなことを……。」
「いや、もう僕の心はきま
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