ってるんだ、指輪を受取る時の彼女の眼付は、そりゃあ綺麗だった。僕はあんな眼付が好きなんだ。断じて結婚してみせる。それから学校を止そう。もし彼女と結婚が出来なければ、僕は意地でも、向うから罷めさせるまで辞表は出さない。」
 私は彼の気質を知っていたので、無理に逆らうこともしかねた。兎に角学校の人に逢って、詳しく事情を聞いた上で……とそう思って、彼をなだめ帰して、学校へ出かけていった。
 学生監と教務主任とに逢って、私は前述のような話を聞いたのだった。大体長谷部から聞いた通りで、ただ、彼女が指輪を喜んで受取ったと否との点だけが違っていた。長谷部は彼女が喜んだと云っていたが、学校では長谷部が彼女を強迫したようになっていた。がそれは、一心に思いつめた顔付でつっ立ってる彼を前にして、彼女が感じたろう気持を想像してみると、どちらも真に近いものだったろうと思われる。そしてそんなことよりも、なお、一層曖昧な事柄がこの話の中にはいくらもあった。
 後で聞いたところによると、彼女の所謂透視なるものが頗る怪しげなものだった。的中するのは十回のうち四五回に過ぎなかった、と云う人さえあった。また、それを本当に信じてるのは長谷部一人で、他の人達はいい加減馬鹿にしてかかってたそうだった。また、長谷部は彼女を相手に、潜在意識がどうだとか、霊の感覚がどうだとか、そんなむつかしいことを説き立てて、黙って微笑んでる彼女を前にして、一人で悦に入ってることもあったそうだった。あの頃から恋し初めたのかも知れない、という者さえ出てきた。
 或る時、もう午後遅く、西に面した窓硝子に、赤い夕陽《ゆうひ》がぎらぎら映ってる時のことだった。彼はふいに立上って、彼女を捉えて、窓硝子の夕陽と睥めっこをしようと云い出した。彼女はすぐに応じた、そして二人並んでつっ立って、眩い夕陽に瞳を定めた。三分……五分……彼女の方が顔を外らした。それからまたやり直した。彼はなお強いた。しまいに彼女は、眼からぼろぼろ涙をこぼしながらも、強いらるるまま夕陽へ立直ったそうだった。
 然しこの話は、或は誰かの拵えたものかも知れなかった。ただ、彼がじっと机にもたれて夢想しながら、遅くまで教員室に残ってることがあったのは、確かな事実らしい。然しも一人の女給仕の証言によれば、彼は決して彼女の帰りをつけるようなことはしなかった。却って彼女の方から、もう帰る時間ですよと促すことがあった。すると彼は夢想のさなかからひょいと立上って、黙って先に出ていって、振向きもしないでとっとっと歩き去ったそうである。
 その他、まだ私の知らないいろんなことがあったとしても、彼の結婚決心の動機なるものは、どうも不可解だった。それまで大して人の口にも上らなかったほど、二人の間は淡いものだったらしい。それが、突然の指輪となり、突然の求婚となったのだった。
 結果は簡単に述べておこう。私は学校の人達に逢って、どうしても長谷部が職に留ることは出来なくなってるのを知った。そして、長谷部の未来のことや現在の貧しい生活のことなどを考えて、ただ嘆息するの外はなかった。
 幸にも事件はうまく片付いた。彼女の家は、ひどく零落はしていたが、血統やなんかは正しいらしかった。彼女も彼女の一家も結婚を承諾した。長谷部の母も結婚を承知した。そして長谷部はその後、或る製菓会社にはいった。製菓会社とは面白いが、更に面白いことには、其後学校で女給仕を廃して男にしたということを聞いた時、長谷部は飛び上って愉快がったのである。
「学校に女の給仕を置くなんて、初めから間違っていたんだ。」
 私は返辞に困った。
 そして、母親が結婚を承知した由を知ると、彼の喜びは更に大きかった。
「そうれみ給え、僕が云った通りだ。天は助くる者を助くるんだ。」
 そんな出たらめなことを云って威張っていたが、それでも母親の前に出ると、彼は子供のように顔を真赤にして、眼に一杯涙ぐんでいた。
「お母さん、僕達は二人心を合して孝行します。ほんとに孝行しますよ。安心して下さい。」
 その言葉を、母親は自ら涙ぐみながら、中一日おいて私が行くと、くり返しくり返し聞かしてくれた。
 彼は縁側に寝そべって、変に憂欝な微笑を頬に浮べていた。
「どうしたんだい。」
「うむ……。」
 意味のない返辞をしたきりで、彼はまた地面に眼を落した。赤蟻がそこらを這い廻っていた。然し彼はもう餌をやりもしないで、じっと傍観してるきりだった。それから不意に私の方へ向き直った。
「君、結婚って、嬉しいものだろうかね。」
 私は驚いて彼の顔を見つめた。前々日の彼の喜びが大きかっただけに、私は呆気に取られた。
「僕はどうも、変に不安なんだが……。」
 そして彼は私の眼をなおじっと見入ってきた。私は眼を外らして答えた。
「だって君は、あんなに自分で云い張って……そしてあんなに喜んでたじゃないか。」
「そりゃあ今でも嬉しいには嬉しいが、でも何だか不安な……いや、不安だと云えば人生そのものが不安なんだ。」
 その調子に、私はいつか感じたように、また冷りとしたものを胸に受けた。人生が不安なんじゃない、長谷部そのものが不安だった。
「どうだい、久しぶりで碁でもやろうか。」
 彼はもう眼をぎらぎら光らしていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新潮」
   1925(大正14)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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