してしまった。変に胸糞の悪くなるような髪油の匂いが、気のせいか、いつまでも鼻についていた。そして何とも云えない情けない惨めな気持になって、明るい大通りを犬のようにうろつき廻ったものだ。その時のことを考えてみると、僕は危険だ、実際危険なんだ。」
陰欝な彼の眼付を、私は暫くぼんやり眺めていた。
「君なんかには、そういう経験はあるまいね。いや恐らく誰にもないことなんだろうが……。」
「そりゃあ、そういう一寸した気持を起すことは、男には誰だってあるかも知れないが、気持の上のことと実行とは……。」
「距離があるというんだろう。ところが僕には、その距離が非常に少いような気がして……全く君が云う通り、反省と自制とが足りないのかも知れない。然し、それが自然だとしたら、どうすればいいんだ。……どうしたらいいんだ。」
荒い髪の毛をもじゃもじゃに乱した、骨立った額の下から、彼は陰欝な眼付で私を覗き込んで来た。私は何かしら冷りとしたものを受けた。
その冷りとした感じは、私の下らない道徳心の故だったかも知れない。なぜなら、長谷部は実に素敵なことをやってのけてしまったのである。だが、一歩退いて考えてみると、
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