たら大変だと思って、逃げようとしたが、彼は離さなかった。
 撞球場は案外すいていた。二人はゲームを初めた。友人は一時間ばかりで止すつもりだったが、他に待ってる相手がなかったせいか、彼はいつまでも許さなかった。友人が嫌がれば嫌がるほど、益々執拗に強いるのだった。しまいには友人も腹を据えて、十一時過ぎまで相手になった。
 それから二人して、撞球場を出てぶらりぶらり歩いてると、とある湯屋の前に出た。まだ湯屋は起きていた。
「君は湯にはいるんだったろう。こんどは僕の方で附合ってやるよ。」と不意に彼は云い出した。
「だってもう遅いよ。湯が汚くて駄目だ。」
「なに構うものか。」
 そして彼は先に立って湯屋へはいり込み、手拭をかりて湯にはいった。
 湯気が濛々とこめてる中に、裸体の人が一杯こんでいた。硝子張りの天井から、冷い雫《しずく》が落ちていた。湯はぬるみ加減で、上り湯は底少くなっていた。
 彼は長い間湯壺の中につかっていたが、どこも洗わないうちに、友人を急《せ》き立てて出てしまった。
 その帰りに、彼は友人にこんなことを云った。
「僕は暫くぶりで銭湯にはいってみたんだが……貧乏でも僕のうちには湯殿があるものだからね……、」そして彼は苦笑を洩した。「銭湯って変なところだね。ああ大勢客が込んでると、何というか……一種の群集心理みたいなものが働くと見えて、湯壺の中に一人か二人しか残らないで、みんな流し場に出てしまう時と、一度に湯壺へ飛び込んでくる時とがある。不思議だねえ。そして、大勢湯壺にはいり込んでくると、僕はそれを測ったんだが、湯の高さが、大丈夫一尺五寸は違ってくる。君、あの大きな湯壺の湯が、一尺五寸も高まるほど、人の身体がぶちこまれるんだぜ。女湯の方もそうだろう。両方で、男と女とが芋の子のように湯壺の中にこみ合って、ごった返してる。まるでめちゃだね。」
「え、めちゃだって……何が。」
「何がと云ったって……めちゃじゃないか。」
 長谷部が果して何をめちゃだと感じたのか、友人には分らなかったが、その話を聞いた私にも、勿論分りはしなかった。
 ところが、それと関係があるようなまたないような、変な告白を、私は長谷部からじかに聞かされたことがある。
 その時私達は酒を飲んで、可なり酔っていた。私は彼の性情を心配して、いろいろ忠告めいたことを饒舌っていた。彼はおとなしく耳を貸していたが、ふいに云い出した。
「君の云う通りだ。僕は自分でも自分を制しきれなくなる時がある。君だから打明けるが、僕はとんだ破廉恥なことをやりかけたことさえある。……或る晩遅く、薄暗い横町を一人で通っていた。すると、どこかの女中らしい若い女と、ぱったり出逢ったのだ。断っておくが、君も知ってる通り僕はさほど性慾的な方じゃない。時々いかがわしい方面へ出かけていって、まあ生理的の必要だけは満たすこともあるが、決して深入りはしない。さっぱり面白くないんだ。球や碁やテニスには夢中になることもあるが、女には決して溺れない。それが、僕のひそかな矜りだった。ところが、その晩、どんより曇ったむし暑い晩だったが、夜目にまるまると肥ったその肉体と、ぱったり出逢った時、僕はどうしたはずみでか、ふいに、今晩は……と声をかけてしまった。馬鹿げた挨拶さ。だが、酔ってたんじゃないよ。全くの白面《しらふ》なんだ。そして声をかけながら、咄嗟にその女の手を握ってしまった。はっと思った時には、女は何やらがーんと響く声を立てながら、僕に武者振りついて来ようとしている。僕はもう……心が顛倒したというか、女を突き飛しておいて、一散に逃げ出してしまった。変に胸糞の悪くなるような髪油の匂いが、気のせいか、いつまでも鼻についていた。そして何とも云えない情けない惨めな気持になって、明るい大通りを犬のようにうろつき廻ったものだ。その時のことを考えてみると、僕は危険だ、実際危険なんだ。」
 陰欝な彼の眼付を、私は暫くぼんやり眺めていた。
「君なんかには、そういう経験はあるまいね。いや恐らく誰にもないことなんだろうが……。」
「そりゃあ、そういう一寸した気持を起すことは、男には誰だってあるかも知れないが、気持の上のことと実行とは……。」
「距離があるというんだろう。ところが僕には、その距離が非常に少いような気がして……全く君が云う通り、反省と自制とが足りないのかも知れない。然し、それが自然だとしたら、どうすればいいんだ。……どうしたらいいんだ。」
 荒い髪の毛をもじゃもじゃに乱した、骨立った額の下から、彼は陰欝な眼付で私を覗き込んで来た。私は何かしら冷りとしたものを受けた。
 その冷りとした感じは、私の下らない道徳心の故だったかも知れない。なぜなら、長谷部は実に素敵なことをやってのけてしまったのである。だが、一歩退いて考えてみると、
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング