もし事情が一寸異っていたら、或は重大な犯罪をも最も自然に行ったかも知れない、と思わせるようなものが彼のうちにあった。
「もしそれを受取らなければ、殺されるかも知れないと……そんな気がしましたので……。」
 長谷部からなぜ指輪を受取ったかと聞かれた時、彼女はそう答えたそうだった。
 彼女というのは、彼が英語の教師をしてるその小さな私立大学の、教員室の給仕だった。
 一口に云えば、事件は簡単だった。彼が勤めてる私立大学の教員室に、二人の女給仕がいた。一人は髪の毛の縮れた顔のいかつい二十二三歳の女で、一人はまだ十六七の小娘だった、が髪の濃い目鼻立の整った、一寸小綺麗なそして無邪気な様子だった。その若い女給仕へ、彼は或る時青い宝石入りの金指輪を買ってきて、無理に受取らせてしまったのである。普通なら何でもないことなんだが、学校内の出来事なだけに、重大な問題となった。
 その日の午後四時半頃、他の室で事務を執っていた学生監が、ふと教員室にはいっていった。みると、室の隅で、若い方の女給仕がしくしく泣いていて、それを年上の女給仕が慰めていた。外に誰もいなかった。学生監は不思議に思って、いろいろ訳を尋ねてみたが、聞き出すことが出来なかった。そのうちに、彼女達は帰っていった。そして十五分ばかりすると、年上の方のが戻ってきて、学生監に訳を話した。それによると、若い方のが一人きりでいる時、長谷部がはいって来て金の指輪をいきなり差出したそうだった。彼女は断った。然し彼は恐ろしい勢で睥みつけて、その上拒めば打ち殺しもしかねないような様子で、無理に受取らしてしまった。そうして彼が出て行ってしまった後で、彼女は何だか急に恐ろしくなってぼんやりつっ立ってるところに、年上の同輩が室に戻ってきて、手に持ってる金指輪を見付けた。不審がられて尋ねられると、彼女は不意に泣出してしまったのだそうだった。
 その話を聞いて[#「 その話を聞いて」は底本では「その話を聞いて」]、学生監は処置に困った。とりあえず彼女に口止をしておいて、それから教務主任の室へ行って、二人で相談してみたが、長谷部を辞職させるという以外に、名案も浮ばなかった。
 一方でそういうことになってるとは知らないで、長谷部は翌日学校へ出ていって、学生監と教務主任とから別室に呼ばれた。その時彼は平然として答えたのだった。
「別に悪意あってしたわけではありません。彼女の不思議な能力に対する感謝のしるしです。私がいくら練習しても、心を練っても、到底会得出来ない能力を彼女が持ってるからです。」
 その能力というのは、透視……というほどではないが、一種の精神感応力だった。盆の上に茶碗を幾つも伏せておいて、どれかの中に貨幣を入れておくと、彼女は上からじっと眺めながら、それをよく云い当てた。教師連中は面白がって、当ったら中の貨幣をやることにして、度々彼女に試みさした。外れることも時にはあったが、大抵は美事に当った。
 それを最も不思議がって、彼女に最もしつっこく試みさしたのは、長谷部だった。しまいには、ありったけの五十銭銀貨を持ち出したり、また自分で試みてみたりした。彼女も遂には嫌がって、なかなか求めに応じなくなった。然し長谷部は一人で熱中していった。透視や千里眼なんかに関する書物は勿論のこと、心霊研究の方面の書物までも買ってきて、夜遅くまで読み耽った。
 そういう彼の熱心さを、教務主任と学生監とは信じなかったし、また彼の方でも誇示しようとしなかった。ただ彼がいつも一心になって、女給仕の透視に立会ったり、始終彼女に透視を強いたりしてるのは、そして時には、そのために授業時間まで忘れかけることがあるのは、皆に知られてる事実ではあったが、それは指輪の一件を弁義することにはならなかった。その上、彼女は相当の顔立だったし、彼は独身者だった。而も事が起ったのは、神聖なるべき教員室でだった。
「こんなことになっては、どう始末したらよいものか、私共も困ってしまうんです。」
 教務主任はそんな風に、曖昧な口の利き方をした。
 長谷部はしまいに黙り込んで、二人の前に頭を垂れていたが、やがてふいに云った。
「四五日、進退を考えてみます。」
 そして彼は四五日欠勤すると云い置いて、学校の門を出た。若い女給仕はその日学校へ出て来なかった。
 それから長谷部はどう考えたのか、私のところへやって来て、事の次第を話した上で、その女に結婚を申込んでくれと、私に頼むのだった。
「結婚するって、どうしてだい。」
 私は彼の意外な決意に喫驚した。が彼の方が、私の驚きを不思議がってるようだった。
「どうしてって……ただ、結婚してみたいんだ。」
「馬鹿な、そんことで結婚する奴があるものか。結婚してみたいからって、そんなむちゃなことを……。」
「いや、もう僕の心はきま
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング