、兄さんの結論としては、私が神経衰弱になってるか、向うが半狂人になるほどのぼせきってるか、否恐らく両方ともそうだろう、ということだった。私と義姉さんとは、互に顔を見合って、不気味な予感に震え上った。
その晩相談の結果、私は万事兄さんの指図に従うこととなった。第一には、出来る限りお寺の前を通らないこと、もし朝遅くなった時なんか、廻り途をする時間がない場合には、お寺の向うまで女中に送って来て貰うこと、帰りには必ず廻り途をしてくること。次に、もしお坊さんと出逢って変なことがあったら、必ず兄さんにうち明けること、そうすれば此度こそは、兄さんが向うへ行って、厳重に談じ込んで下さること。――私はそれらを皆承知した。
所が、私はその約束通りに行わなかった、行えなかった。私は彼に対して非常な恐怖を感じたのであるけれど、恐怖の合間には、また一種の憐憫の情をも感じた。そして彼に脅かされる時には、どんなことがあってもお寺の前を通らなかった。けれど彼を憐れむ時には、俄に姿を見せないのも可哀想だと思って、やはりお寺の前を通った。その二つのことが間歇的に私に起ってきた。ああ年若な女の容易い慴えよ、また傲りよ! 然し今から考えると、それ以外に或る大きな蠱惑が私を囚えていたように思われる。それは蝿を招く蜘蛛の糸の惑わしだ。私は彼を恐れ或は彼を憐れみながらも、心の奥では彼に魅惑されていたのであろう。
その上、別に変ったことも起らなかった。
私は往きに時々お寺の前を通って、御門の中に立ってる彼と逢った。帰りにもたまに、お寺の前で彼と出逢うことがあった。
そのうちにまた学期試験となり、冬休みとなった。然しそのお正月は、私にとっては陰欝なものであった。絶えず頭にはぼんやりした霧がかけていた。死んだ人を偲ぶようにして、彼のことを思い出したりした。兄さんから私はすっかり神経衰弱だときめられた。義姉さんからは非常に心配された。そして三人で、四日五日六日と二晩泊りで、箱根へ小遊に出かけた。けれども、お友達へ絵葉書の文句などを書いてる私の額は、ともすると曇りがちであった。私は本当に神経衰弱だったのかも知れない、或は既にその時から……。
学校が初って、暫くは何のこともなかったが、二月の或る寒い日、私はまた彼からつけられてることを感じた。然しその時は、彼――もしくは私の心の幻――は、途中で消えてしまった。そういうことが三月のはじめにも一度あった。
私はそれを兄さんに隠した。なぜだか分らないが、どうしても云えなかったのである。そして遂に最後の日がやって来た。
三月の十二日、その日は朝からどんより曇って、そよとの風もない、妙に頼り無い気のする日であった。朝は廻り途をして学校へ行った。帰りに廻り途をしようと思ったが、兄さんが少し風邪の心地で家にぼんやりしていられるのを思い出して、早く家に帰りたくなり、何の気もなく真直に戻って来た。
お寺の門の柱によりかかって彼が立っていた。私は平気を装いながら通り過ぎようとした。その時彼は何と思ったか、私に一寸お辞儀をした。私もそれに引きこまれてお辞儀をしてしまった。それから、私は俄にぞっと全身に慄えを覚えた。今迄と違って、妙に真剣なものが感じられたのである。駆け出そうとしたが出来なかった。自分の足が非常に重く思われた。私は歯を喰いしばって歩き続けた。彼が私の後から常に七八歩の間隔を保ってついてきた。漸く家の前まで来て、私が門の中へはいると、彼も中へはいって来た。私が玄関に立った時、此度は不思議にも――否この方が不思議ではないのだけれど――、玄関の方へやって来る彼の足音が、門内の砂利の上にはっきり聞えた。私はもう堪らなくなった。後ろをふり返る余裕も、靴をぬぐ隙もなかった。靴のままいきなり上に飛び上って、奥の室へ駆け込んだ。義姉さんがお仕事をしていられる傍に、兄さんは褞袍を着て寝転んでいられた。
「お坊さんが!」と私は一声云ったきり、其処につっ伏してしまった。
兄さんにはすぐそのことが分ったらしかった。褞袍をぬぎ捨てると、玄関へ出て行かれた。私は上半身を起して玄関の方へ耳を澄した。暫くすると……ああやはり本当だったのだ! 誰かに話しかけてる兄さんの声が聞えた。その声に義姉さんも喫驚して立ち上られたが、すぐにまた坐って私の靴をぬいで下すった。私はされるままに任した。手先が震えて寒気《さむけ》がしていた。袴も義姉さんに手伝って貰ってぬいだ。義姉さんから私は奥の室へ連れて行かれた。
「此処にじっとしていらっしゃい、すぐにまた来ますからね。心配なことはありませんよ。」
そう義姉さんから云われて、私は熱い涙がはらはらと出てきた。義姉さんは立って行かれたが、暫くしてまた戻って来られた。私達は彼のことについては一言も口を利かなかった。私は寒気がす
前へ
次へ
全10ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング