るので、義姉さんは炬燵に火を入れて下すった。私は炬燵の上に顔を伏せたまま、じっとしていた。訳の分らない涙がしきりに出てきた。何にも考えられなかった。義姉さんは時々立って行かれた。兄さんは何時までも戻って来られなかった。
電灯がともって、外が薄暗くなりかけた頃、私の心は漸く落付いてきた。御飯の時に私は初めて兄さんの顔を見た。兄さんは非常に興奮していられるようだった。餉台の上にはいつもより多くの御馳走が並んでいた。
「昼飯を御馳走してやるつもりだったが、帰ってしまったので……。」と兄さんは仰言った。
それを聞いて、私の心は急に晴々しくなった。そして彼のことを兄さんに尋ねようと思ったが、さすがに言葉が口へ出て来なかった。
その晩、兄さんと義姉さんと私と三人は、炬燵のまわりに集って、兄さんから仔細のことを聞かされた。
――兄さんが玄関に出て行かれると、其処に彼が立っていたそうである。兄さんは喫驚されたが、用があるなら云ってほしいと云われた。それでも彼は黙って立っていた。仕方がないので彼を客間へ通した。彼は案内されるまま客間へ通った。そして其処で、彼は凡てをうち明けた。彼は一昨年の秋から私に恋していたのだった。けれども僧侶の身分なので、心のうちでどんなにか煩悶したそうである。或時は自殺の決心までしたとか。それでもなお思いきれないので、遂に私の父に心のうちを訴えるつもりで、今日私の後をつけて来たのであった。彼は今日まで、私の住所も名前も知らなかったそうである(そうすると、以前のことはやはり私の幻覚だったのだ! けれど私にはそればかりだとは信じられない。)彼の話を聞いて、兄さんは懇々と説諭を加えられた。そして、「あなたも修業がつみ立派な名僧となられたら、妹を差上げないものでもないが……。」と云われると、彼はわっと声を立てて泣き出してしまった。いつまでもいつまでも泣き止まなかった。「それには僕も困ってしまった、」と兄さんは仰言った。長く泣き伏していた彼は、俄に顔を上げて、「これから外国へ行って学問をして来るから、あと二年間お妹さんを結婚させないで置いて下さい、」と頼んだ。兄さんはその向う見ずな心をさとして、日本でも勉強は出来ると説き聞かせられた。けれども彼はどうしても聞き入れなかった。「来年の暮まで私から便りがなかったら、お妹さんはどなたと結婚されても宜しいが、来年の暮までは是非待って下さい。それまでに私は外国で立派な者になって来ますから、」と彼は涙を流しながら頼んだ。それで兄さんも我を折って、「それほど固い決心なら、何れあなたの寺の住職とも相談の上、私も何かの力になってあげよう、」と云い出された。すると彼はまたわっと声高く泣き出して、如何に引止めようとしても止まらないで、帰って行った。兄さんは門の所までついて行って、「何れ私から和尚さんに万事のことを相談するまで、決して早まった無分別なことをしないように……。」とくれぐれも云われたが、彼はただ黙ってお辞儀をして帰って行ったそうである。
「あれほど一心になれば豪いものだ、僕まで本当に感激してしまった。」
兄さんはそう云って、話の終りを結ばれた。
私は兄さんの語を聞いてるうちに、いつのまにか涙ぐんでいた。
「でも何だか可笑しな話ね。」と義姉さんは仰言った。「あなたまで誑かされたんじゃないでしょうか。そんなお約束をして後で……。」
「いや大丈夫だ。とにかく寺の住職に逢って話してみれば分る。」と兄さんは答えられた。
私はその晩早く床にはいった。けれども長く眠れなかった。非常な幸福が未来に待っているような気もし、また真暗な落し穴に陥ったような気もした。頭の中がぱっと華かになったり、また急に真暗になったりした。うとうとと眠りかける上、訳の分らない夢に弄ばれた。
翌日私は学校を休んだ。兄さんは風邪の熱が取れないので、お寺へ行くのを延された。
その翌日も私は学校を休んだ。兄さんは朝の十時頃、お寺へ出かけて行かれた。そして意外な話を持って来られた。
――彼は和尚さんの故郷である駿河の者であった。貧しい家の生れで、幼い時に両親を失ってしまい、他に近しい身寄りもない所から、土地のお寺に引取られた。所が非常に利発らしいので、和尚さんがその寺から貰い受けて東京へ連れて来られ、隙な折に一通りの学問を教え、次に仏教の勉強をさせられた。彼の頭は恐ろしいほど鋭い一面があると共に、何処か足りない――というより狂人じみた点もあった。それで和尚さんは可なり心配されて、人格の修業をするように常々説き聞かせられていた。所が二十二歳になった一昨年の秋頃から、彼は深い煩悶に囚えられたらしかった。(和尚さんは、私のことは少しも知っていられないのであった。)そしてるうちに、昨年の夏以来、彼はちょいちょい酒を飲むようになった
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