ていた。非常に遠い所のようでもあれば、すぐ眼の前のようでもあった。眼を閉じて、安らかに眠ってるような顔だった。私はそれを幾度も見たように覚えている。けれど或は一度きりだったかも知れない。私は別に驚きもしなかった。前から予期していたことのような気がした。私は、彼が死んだことをはっきり感じたのだ!
 死は凡てを浄めてくれる。私は病床に在って、遠い昔の人をでも思い起すような気持ちで、彼のことを考えていた。そして、「今年の暮」という鉄の扉も、私の前から除かれてしまった。私は安らかな気持ちで、自分の過去のこと未来のことを思った。未来は茫として霞んでいた。
 私の病気は一ヶ月足らずのうちに快癒した。予後の保養のためにぶらぶらしているうちに、十二月半ばのある天気のいい日に、私はお母さんと二人で、自家の菩提寺へお詣りにゆくことになった。故郷へ帰ってから、私はお盆にお詣りする筈だったが、彼の事で気が進まなかったのである。それで、暮のうちに一度詣りしておこうかと、お母さんが云い出されたのをいい機会に、死んだ彼――私はそう信じきっていた――の冥福を祈りたい気もあったので、すぐに行くことにきめた。
 お寺まではそう遠くなかったので、私達は歩いてゆくことにした。うち開けた田圃道を十町ばかり行って、なだらかな丘の裾を少し上ると、其処にお寺があった。野の香りが病後の私には快かった。空は珍らしく綺麗に晴れていた。柔い冬の日脚も楽しかった。
 お寺に着いて、先ず裏の墓所に詣で、次に本堂にお誇りをした。私は彼の をも[#「彼の をも」はママ]しみじみと祈った。
 それから私達は、しいて庫裡の方へ招じられて、お茶菓子などの接待を受けた。和尚さんは私の姿をつくづく眺めながら、私の子供の折のことなどをお母さんと話された。私は黙って傍に坐っていた。
 その時、白い平素着をつけた年若なお坊さんが、私達に挨拶をしに出て来た。私は何気なくその顔を見ると、ぞーっと身体が竦んで[#「竦んで」は底本では「辣んで」]、眼の前が暗くなった。危く叫び声を立てる所だった。彼だ、彼だ! そのお坊さんは彼だったのだ! 私はもう何にも覚えなかった。ただ低くお辞儀を返したことだけを覚えている。お坊さんが向うへはいってしまってから、私はとうとう其処につっ伏してしまった。
 私が漸く我に返ると、お母さんは心配そうに私の顔を覗き込んでいられた
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