。一晩他処に泊って来ることもあったそうだ。和尚さんは厳重な叱責を加えられた。その時彼は断然行いを改めると誓った。そしてこれからは庭の掃除なんかも、寺男の手をかりないで自分でやると云い出した。和尚さんは大変喜ばれた。彼の行いも実際見違えるほどよくなった。それがずっと続いた。所が一咋日の晩、夜遅く帰って来て、自分の室で一人泣いていたそうである。和尚さんはよそながら注意していられた。すると、その夜から彼の姿が見えなくなった。白の平素着をぬぎ捨てて、普通の着物を着て出て行ったのである。なお種々調べてみると、お寺にあった現金七十何円かが無くなっていた。他には何等の変りもなく、書いた物もないので、屹度金を盗んで逃げ出したものと和尚さんは思われた。昨日一日待っても帰って来なかった。それで和尚さんは、警察に捜索願を出そうかと考えられた。その所へ恰度、私の兄さんが行かれたのだそうである。
「住職と種々話し合ってみると、」兄さんは云われた、「あの男の性格もほぼ分ったし、前後の事情も推察がつく。然し何だか……。」
 兄さんは中途で言葉を切って、小首を傾げられた。
 私は大きな鉄槌で打ちのめされたような気がした。どう考えていいか分らなかった。自分の未来が真黒な色で塗りつぶされたような心地がした。否未来だけではない、心まで真黒に塗りつぶされたのだ。私はもう何物にも興味を失った。殆んど自暴自棄な投げやりの気持ちで、周囲に対し初めた。何をするのも面倒くさく懶かった。而もなおいけないのは、最初の打撃から遠のくに従って、彼に対する淡い愛着の情が起ってきたことである。二三ヶ月も過ぎて後、当時のことを考えると、彼の一図な気持ちがはっきり分るような気がした。私は彼のことを悪く思えなかった。それ所か、よく思おうとさえつとめた。そして彼のことを始終なつかしく思い出した。もし彼が今私の前に現われてきたら、私は震え上って逃げ出すだろうということを、はっきり知りながらも、彼に逢いたいような気持ちが、心の底に潜んでいた。つきつめて考えると、深い真暗な井戸の中を覗くような気がしながらも、彼に対するやさしい情が消えなかった。その矛盾が、いつまでも解決のつかない矛盾が、絶えず私を苦しめた。夏の休暇になっても、私の心は少しも晴々としなかった。
 彼の其後の消息は、兄さんの所へも和尚さんの所へも、全く分らなかった。警察の方へ内
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