は是非待って下さい。それまでに私は外国で立派な者になって来ますから、」と彼は涙を流しながら頼んだ。それで兄さんも我を折って、「それほど固い決心なら、何れあなたの寺の住職とも相談の上、私も何かの力になってあげよう、」と云い出された。すると彼はまたわっと声高く泣き出して、如何に引止めようとしても止まらないで、帰って行った。兄さんは門の所までついて行って、「何れ私から和尚さんに万事のことを相談するまで、決して早まった無分別なことをしないように……。」とくれぐれも云われたが、彼はただ黙ってお辞儀をして帰って行ったそうである。
「あれほど一心になれば豪いものだ、僕まで本当に感激してしまった。」
 兄さんはそう云って、話の終りを結ばれた。
 私は兄さんの語を聞いてるうちに、いつのまにか涙ぐんでいた。
「でも何だか可笑しな話ね。」と義姉さんは仰言った。「あなたまで誑かされたんじゃないでしょうか。そんなお約束をして後で……。」
「いや大丈夫だ。とにかく寺の住職に逢って話してみれば分る。」と兄さんは答えられた。
 私はその晩早く床にはいった。けれども長く眠れなかった。非常な幸福が未来に待っているような気もし、また真暗な落し穴に陥ったような気もした。頭の中がぱっと華かになったり、また急に真暗になったりした。うとうとと眠りかける上、訳の分らない夢に弄ばれた。
 翌日私は学校を休んだ。兄さんは風邪の熱が取れないので、お寺へ行くのを延された。
 その翌日も私は学校を休んだ。兄さんは朝の十時頃、お寺へ出かけて行かれた。そして意外な話を持って来られた。
 ――彼は和尚さんの故郷である駿河の者であった。貧しい家の生れで、幼い時に両親を失ってしまい、他に近しい身寄りもない所から、土地のお寺に引取られた。所が非常に利発らしいので、和尚さんがその寺から貰い受けて東京へ連れて来られ、隙な折に一通りの学問を教え、次に仏教の勉強をさせられた。彼の頭は恐ろしいほど鋭い一面があると共に、何処か足りない――というより狂人じみた点もあった。それで和尚さんは可なり心配されて、人格の修業をするように常々説き聞かせられていた。所が二十二歳になった一昨年の秋頃から、彼は深い煩悶に囚えられたらしかった。(和尚さんは、私のことは少しも知っていられないのであった。)そしてるうちに、昨年の夏以来、彼はちょいちょい酒を飲むようになった
前へ 次へ
全20ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング