しみを感じてきた。
或る麗わしい秋晴れの夕方であった。私はその日お当番で、いつもより遅く学校から帰ってきた。一片の雲もない大空は、高く蒼く澄み返って、街路には一面に黄色い陽が斜に流れていた。妙に空気がしみじみと冴えて、何処までもそのまま歩き続けたいような夕方だった。私は晴々とした心地で、お寺の前を通りかかった。通りしなにいつもの通り一寸中を見やると、私は足が自然に引止められる心地がした。御門から二十間ばかりかなたに、あの若い淋しいお坊さんが、楓の幹に片手をかけてよりかかるようにしながら、じっと――長い間そのままの姿勢でいたかのようにじっと佇んで、こちらをぼんやり見守っていた。楓の枝葉を洩れてくる斜の光りが、お坊さんの真白な着物の上に、ちらちらと斑点を落していた。私の姿を見たお坊さんの顔は、静かに静かに、恰度風もないのに湖水の面がゆらぐように、かすかな襞を刻んでいった。かと思うと、いつしかにこやかに微笑んでいた。私の顔も知らないまに微笑んでいた。……それに自分で気がつくと、私は急に我に返ったように恥しくなって、顔を伏せたまま逃げ出してしまった。
その晩床にはいって、昼間のことを考えると、大変やさしい夢を見たような気がした。「あの年若なお坊さんの上に祝福がありますように。」――私はそうした気持ちになっていた。ああ、何ということであろう!
その翌日から、私は学校の往き帰りに、大抵日に一度くらいは、お坊さんと顔を合した。奇体にお坊さんは、私がお寺の前を通る時、庭の中に出ていた。それをお互に不思議とも思わないかのように、私達はいつも微笑み会った。
そういうことが、十月十一月と、二月ばかり続いた。お寺の前を通るのが私に嬉しいのは、清らかなお寺の庭のせいであるか、お坊さんの親しい笑顔のせいであるか、もはや分らないくらいに私の心はなっていた。
けれどもそれは、愛というようなものではなかった。私はまだ十六で、異性に対する本当の感じは少しも知らなかった。兄さんの若いお友達の方などから、随分と露骨にひやかされても、ただ極り悪いという感じ以外には、何の気持ちも起らなかった。兄さんのお友達のうちには、私が憧れの目を以て眺めた人がないでもなかったのだけれど、それも私自身の美しい女のお友達に対する気持ちに比べると、非常に淡いものに過ぎなかった。そしてあのお坊さんに対する私の気持ちは、兄
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